生きていることが申し訳ないです
はじめまして。上手くまとめることが出来ず、またかなり長くなってしまうかと思いますが目を通していただけますと幸いです。
私は現在大学4年生で所謂就活生というものです。しかし、言い訳になってしまいますが、発達障害とうつ病をもっておりなかなかうまく進めることが出来ていません。日々、父に私自身の努力の出来なさ、甘え、病気や障害を言い訳にしていることなどについて厳しく叱責されています。こんな私が生きていることが、また就職活動で志望企業にお手間を取らせてしまうことが申し訳なくて仕方ありません。
4月から卒業論文の執筆なども活発になっていくことから、担当してくださる教授にうつ病、発達障害のことを連絡したのですが、返信があまりにも優しく、そのように対応してくださったこと、これからたくさんご迷惑をおかけするであろうことなどにどうしようもなく申し訳なくなります。
また、先日祖父が亡くなりました。私の血縁者の中では1番私に優しく、私を肯定してくれた祖父でした。しかし高校大学と忙しくなった私はあまり頻繁に顔を出すことなく、せっかく会えてもスマホを触ってしまったりしていました。もっとたくさんお返しをしたかったのに、私がダメな人間なせいで祖父に何も返すことができず、申し訳ないです。
精神科に通ってはいますが、時間を取らせてしまうことへの申し訳なさや他にも患者さんはいるだろうという考えから、何も話すことが出来ず、元気な顔をして笑ってしまいます。
また、小さいときに母に「頼むからまともな子になって」と泣かれたことがあります。当時は私が発達障害と判明しておらず、母も沢山悩んだかと思います。小さな頃からそして今に至るまでたくさん迷惑、心労をかけてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいです。産まれたのが私ではない誰かであればと思ってばかりいます。
私はモルモットを1匹飼っているのですが、彼にも申し訳ない気持ちが多くあります。可能な限り可愛がり、また可能な限り過ごしやすい環境を整えるように努力してはいますが、私ではない誰かの元にお迎えされた方が彼にとって幸せなのではないかと思ってしまい、私のエゴで彼をお迎えし、私に縛りつけている事に申し訳なさでいっぱいです。
今にも死んでしまいたいのですが、自殺はどれだけ考えても誰かに迷惑をかけてしまいます。
どうすればいいのでしょうか。
長文を失礼しました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「人のために生きる」=「自分なりに精一杯生きる」
こんばんは。亀山純史と申します。
「人への迷惑の上にしか、自分が生きることが出来ない」と感じているんですね。確かに、発達障害とうつ病を抱えているならば、他の人以上に、人への迷惑には敏感にならざるを得ないことでしょう。そのようなあなたに、私は永六輔さんの以下の言葉を紹介したいと思います。
「生きているということは、誰かに借りをつくること。」
「生きていくということは、その借りを返してゆくこと。 」
よく言われることではありますが、人は一人では生きていくことは出来ません。衣食住のどれをとっても、人のお世話になっていないものは、何一つとしてありません。これが「生きているということは、誰かに借りをつくること。」です。そのような私たちにおいて、もしも、病気になったならば、あるいは何か障害を持っていたならば、その人には他人のお世話になる権利なり資格がない、なんて言うことがあろうはずがありません。
そして、永六輔さんの言葉の後半の言葉、「生きていくということは、その借りを返してゆくこと。」とは、「人のために生きる」と言うことです。そうして「人のために生きる」とは、「自分なりに精一杯生きる」ことです。
仏教では、「縁起」ということを説きます。「全てのものは関係している。全てのものは無関係ではない。」と言うことです。ですから、「人のために生きる」ことと、「自分なりに精一杯生きる」ことは無関係ではないのです。「あなたが精一杯生きることが、周りの人の人生にプラスの影響を与える」のです。だからこそ、自死は周りの人を悲しませるものなのです。
以上が私からの回答です。残りの大学生活が充実したものになることを、心より祈っています。
質問者からのお礼
素敵なお言葉をありがとうございます。
うまく言葉をまとめることが出来なくて申し訳ないのですが、お返事をくださってとても嬉しかったです。
今日もやはり申し訳ない気持ちばかりでどうしよいもないのですが、いただいたお返事と教えていただいたお言葉を噛み締めて、もう少し頑張ろうと思います。
ありがとうございます。