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もう生きていたくない、家族に迷惑

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有り難し有り難し 16

どんどん生きる気力みたいなのが失われている気がします。

うつ病と思われる症状が原因で、大学卒業時に就職できず、その後半年ほど寝込んだ後、バイトしたり、就活したりといろいろしましたが、何もうまくいかず、この先に希望を持てません。

今は実家で暮らしていますが、高齢の祖父と祖母の家なので、2人と母にもうこれ以上迷惑をかけたくありません。

バイトもすぐ辞めてしまい。自分は何もこなせない無能だという気持ちがあります。

ここで必死こいて動けば何か変わるというのはわかっているのですが、動けなくて、気がついたら一日が終わっています。

なんとか、県の就職サポートや、就活を手助けするような企業さんの協力もいただきましたが、それでも上手くいくか自信がありません、ただでさえ一年近いブランクもあるし、特殊な分野の大学だったので、雇ってくれるところがあると思えません。

もう詰んでいる気がします。自分が生きていることを認められません。

世の中にはちゃんとできてる人間の方が多数なのに、こんな人間が生きていていいはずがありません。

苦しいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心の選択肢の安楽かつ手ごたえあり✨ゾーンを選ぶ

心の反応の暗さや凹みレベルを競う世界ネガティブ反応選手権があれば、かつての私はダントツでグランプリだったでしょう。残念ながらネガティブ反応世界選手権は主催者たちが超ネガティブで開催すらされないそうですが。(ホンマカイナ)
そんな私も大きく変わりました。心の弱さはあなたがもうこんな自分はイヤだ!向上したい!と強く念ずればすぐに変えることができます。
こころの凹み癖、ネガティブ反応の癖だけを正せばよいのです。
人間は百人が百人同じ体験で同じ反応をするかといえばそれは異なるでしょう。
自分の反応に問題があったのか!と気づくこと。
自分の負のリアクション癖を自覚して改めればいいだけです。
変わりたい!と志を持つ。
心は念じたこと、思ったことを選択します。それが行動になる。
動くのは動くことを選択しているから。
動かないのは動かないことを選択しているのです。
無自覚でも脳は選んだことを行動しているのです。
たとえば何をするにもやりたくない、やる気がないのも、やろうとはおもう。やろうとは思うのだけれども…(´ー`)ふー、ためらいが生じる…、どぉせやってもダメなんじゃないか…。ウン…だめだろう。(´ー`)ダメに違いない。違いあるまい。あんな思いをするなら…🐄モーやりたくねぇ。あー、メンドクセー( ゚Д゚)KUSOだりぃ。💀AH…やっぱ、ムリ。やらない。やれない。うごかない…。その結果、…できない。結果的に「やらない」を「選択している」のです。この脳が。私が。自分が自分に「やらない」を選択している。そういうもんではないでしょうか?100%正確ではないにしてもやろうと思っても「やらない」ということは「やる」を選択しているのではない。やろうとは思う・やらなきゃいけないことは知ってる。でも「やらない」を選択しているのです。このカラクリを見抜けば自分の「やれない・やれない」はやれない、やらないではなく、やらないを選択している姿と気づけます。
そこで選択肢を変えることができます。
朝起きたくない、布団から出たくない心理と同じです。
言い訳が上手になると表面的にカッコいい理由をつけるのが上手になるだけ。やらないを上手に選択するようになるだけで行動から遠のいていしまいます。
単純に考えたほうが負の反応も行動も「即」変えられます。
仏教の原点は菩提心。あなたも志次第で未来のお釈迦さまです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

自分がネガティブな理由はなんとなく察しが付きます。

多分、ネガティブにしてないと追撃されるような環境だったんだと思います。家族の対応とか、色々思い出すと。

何か失敗した時、ネガティブにしてないと、「なんで失敗したのに気にしてない風なんだ」と言われるのが嫌なんです、失敗者は失敗者らしく申し訳なさそうにしてろと、

似たような事は他の人にも言われました。変わりたいと思ってますよ。何年も。

でももう思い返せば小学生の頃から死にたいと思っていて、家族にも迷惑をかけて、どうにか目先の楽しみでしのいで死にたい気持ちを誤魔化していますが、そろそろ限界だと思います。

生きていればいい事はあるとは言うけれど、これは嫌なことも当然ある事を無視した言葉で、あまり好きではありません。

嫌なことを全部消したくて、それを実現する手段が死ぬことしか思い浮かばないのです。

そのためならいい事が無くなっても仕方ないとすら思っています。

自殺すると地獄へ行くとか、永遠に彷徨うかもしれないみたいな脅しは知ってますし、ここでも似たようなことは言われましたが、申し訳ありませんがそれは信じていません。

多分、死んだら寝てる時、夢を見ていない状態、あるいは気絶とか、そういう状態が永遠に続くだけだと思います。

脳の活動も停止してるので、苦しいとか悲しいとか寂しいとかも感じることはない。そう思っています。

お礼の言葉で反論みたいなこと書いてすみません。これ書かないと次の質問書けないようになったようなので。

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