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宗教勧誘について

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質問失礼いたします。
春から大学生になった者です。

一週間ほど前、キャンパス内を歩いていたらサークル勧誘を受けました。サークルの内容は、韓国料理を作って食べたり、韓国からの留学生と交流したりするというものでした。

気になって先日参加してみたところ、活動内容は聞いていた通りだったのですが、
活動場所は教会で、帰り際に聖書を渡されました。勧誘のときは一切教会について触れられなかったため、宗教勧誘なのではないかと少し怖くなりました。

私はキリスト教や聖書について興味があり、学びたいとは思いますが、このサークルに入って入信を強制させられたり、高額なものを買わされたりしないか不安です。

よくネットやYouTubeで宗教勧誘には気を付けた方が良いというものを目にしますが、全てが全て危険なものなのでしょうか?

このサークルとは縁を切った方が良いのでしょうか。サークルのメンバーは皆とても優しく、居心地がよかったのですが、姉からそれは全て罠だと言われ、人を信じるのが怖くなりました。

アドバイスいただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

主役が別のものになっている組織は実は「それ」がメイン

たとえばあるものが必要で買い物に出かけたとき、はじめは「それ」だけを買いに行ったのに不要なものを「欲しさ」からつい買ってしまうってこと、ありますよね?
店内に陳列しているのもある種、勧誘です。(笑)
私もよく師匠から、欲しさで買うな、必要かどうかで買え、と諭されました。
勧誘は商品や保険やスマホの契約とも異なり、実は「あなた自身」をその宗教団体の一員として取り込むべく「勧誘」をするのです。人員、スタッフを必要とするから勧誘をするのでしょう。それはその宗教が組織的に大きくなる「必要」があるからそういうことをするのです。既成仏教は「勧誘」はしません。布教活動は致しますが、そもそも宗教と言うものは勧誘して教団を大きくして「何をしようと?」しているのでしょうか。ゆくゆくは政治活動、社会運動、票に発展するものもあります。
純粋なキリスト教と韓国系のキリスト教とはちょっと違うそうです。私も知人がキリスト教の勉強をしようとして勧誘されて顔を出したらいきなり「自虐史観」を植え付けられそうになったそうです。お前たち日本人は戦争の加害者だという立場に追い込んでくるのだそうです。さらりとじわじわ来るのだそうで人の心理をよく読み取れる人でないと彼らの狙いは読み取れないとのことです。私も人権で韓国系のキリスト教信者さんと縁がありましたが、やはり同じ気質の方でした。どうして、キリスト教なのに祖国支援活動とリンクしているのか?どうしてキリスト教なのに日本人を悪者にしたり、敵対意識や対立意識を克服していないのだろうか?私は疑問に思い直接コリアンタウンの人権施設に足を運び、そこの施設の「活動の歴史」を調べましたら、いわゆる活動家たちの集まりだったのです。どういうわけかキリスト教ともリンクしているのです。川崎、新大久保、早稲田にはその手の「活動家(社会運動・政治活動)」としてのキリスト教があるようです。私はそれまで世間知らずのいい子ちゃん坊さんだったのでその分野に関しては無知でしたが、世の中には表向きの看板は交流サークル、宗教団体、人権、平和運動、環境保全活動、食の文化であってもそれを通して「自分たちの組織の政治運動に取り込む」団体が沢山あると言う事なのです。新入生を狙う勧誘にはご用心。純粋にキリスト教を学びたいのであれば、王道一本で地道にやっておられる歴史の長い教会で学んだほうがよろしいと思います。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

断りたいときに断れるなら

あなた自身が断るべきときにしっかり断れるなら問題ないと思います。
ただ、仏教的には、そもそもキリスト教を信じる必要はありません。
騙されないように注意しましょう。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

アドバイスいただきありがとうございます。
はっきり断ります。
新入生をターゲットにした宗教勧誘には十分注意し、学校公認の信頼できるサークルに入ろうと思います。
お忙しい中、親身になって答えてくださり誠にありがとうございました。

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