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植物の命について

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有り難し有り難し 23

こんにちは。初めて質問させていただきます。

じぶんは花屋に勤めているのですが、最近どうも、これは因果な商売だという気がしてなりません。
というのは、われわれは花を切ったり折ったり、娯楽として楽しんでおり、それはこのうえなく命を粗末にしていると思うのです。生きていくために仕方なくならまだしも……です。
故人にお花を供える文化もそうですが、花にしてみれば土から身を引き抜かれて、あとは枯れるのを待つばかり……などと考えてしまいます。

仏教の精進料理や、いま流行りのヴィーガンなどは、動物の命はちょうだいしません、かわりに植物を食べますと認識していますが、科学が発展し、植物も命のひとつであることを疑う人はいなくなりました。そうすると、「殺生はしない」という主義主張が植物のせいでおかしくなってくると思うのです。
道徳や倫理は人間本意で作られていて、それを動物や虫にまで広げたのが仏教の教えにあるという印象です。とても心の優しい
宗教だと思います。そこへ、植物が入り込んできたら、いったいどうなるのだろう……という疑問があります。

植物には神経が通っていない、よって痛みは感じないと聞きます。ですから正直あまり可哀想とは思いませんが、それでも自分が同じ立場になったら……ちょっと恐ろしいです。

いま現在、仏教に身を置く方々は、植物の命についてはどのようにお考えなのでしょうか。責めているのではなくて、単純に思想に興味があります。私自身は肉も食べれば、フラワーアレンジメントもします。ふと気になって、お尋ねさせていただく運びになりました。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「有情」

ももさま

植物については、色々と説が分かれるところでありますが、仏教の「有情」というものの定義は、「心」の有無が問われてくるものとなります。

つまり、輪廻していく存続する(微細な)意識としての心を有しているのかどうかということになります。

基本的に動物には「心」があるとしますが、植物には、「心」が無いと定義されるものの、ただ、心が全く無いと言えないような例もあります。

例えば、優しい言葉掛けをしてあげていると、何もしないよりか元気に育ってくれるなど。

そう考えると、もしかすると心が有る植物もあるかもしれないため、一概に全ての植物に心が無いとは言えないと拙生は考えています。

(但し、心があったとしても、仏教においては、仏道を修することのできる条件が調っているかどうかも重要なポイントとなります。人間は、娑婆世界の有情の中では、有暇具足と申しまして、その条件がほとんど調っている境涯となります。しかし、それも全員が全員そういうわけでもないことにも注意が必要です。また、有暇具足が調っていない有情であっても、仏道を修せられる境涯へと向かわせるための仏縁を調えてあげることにより、やがて仏道を修せられる境涯へと至らしめられることは当然に可能なものとなります。供養をするということの意義というのも、そのようなところとなります。)

頂かなくてはいけない命、やむなく奪ってしまう命などへの供養もどうしていくべきであるのかにつきましては、下記の拙法話の追善供養のお話の中でも扱っておりますので、是非、ご参考になさって頂けましたらと存じます。

拙法話「追善供養」


川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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物質的命と心の命

釈尊の初期仏教の定義では、当時の世間で言われる命は、もちろん、魂のような固定したものではなく、存続しようとするエネルギーと見ています。
 畜生にも人間にも天人や餓鬼、地獄の生命にもそれがはたらいているのは自明ですが、さて、植物はどうなの?というところで、初期仏教では少し曖昧に放置しているようです。
 初期仏教では、命というエネルギーには物質的なものと心のものと2種類あると言っています。人間(と畜生)は、物質的なものと心の2つの命エネルギーを持っていて、植物には物質的なものだけ。それ以上、何も語られていません。
 私見では、植物は、生命が住む住環境に含まれるかもしれません。空気や水が汚れると、生命は死に絶えます。自分たちの住環境を整えるためにも、他の生命と慈悲の気持ちで接するべきなのと同様に、生命は植物を大事にせざるを得ません。
 一方、生命は他の生命を食わないと生きていけません。これは根本的な矛盾です。
 そこで、初期仏教では出家と在家で線引きしているようです。出家した比丘には、植物を植えることも、枝や花や葉っぱを切ったり折ったりすることも全部、戒律で禁止されています。罰の重みは異なりますが、動物、人間に対するのと同じようにしています。
 在家の五戒には、そこまではありません。植物さえ食べられなければ、死ぬだけです。出家は、植物でも動物でも、在家が作ったもの、すでに死んだものを分けてもらって食べるので、出家には、食べる時に殺す罪はありません。
 現実の在り方としては、初期仏教でもどの仏教でも、仏像やお堂に、花を供えまくります。肉を供えるのは、あまりよくないとされるのに……
 花さえも、出家は自分では切らないでしょう。戒律で禁じられていますから。でも、在家が持ってきて供えるのは喜んで見ています。そのくらいの曖昧さでいるしかないように思えます。
 スマナサーラ長老のYouTubeのどれかに、植物についての質疑応答もありました。
 私が「植物に命はあるか?」というタイトルの論文を書いたこともあります。これは、CiNiiとかINBUDSという日本人の論文検索サイトに入って、そこから「藤本晃」のものを探すと出てきます。ご参照ください。

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初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
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月に一回の反省会

 ももさん、あなたの質問を読んで色々考えさせられました。この時期は花屋さんも大変ですが、ご自愛ください。
 私は永平寺で修行していたとき、毎月15日と30日(月の最後)には略布薩を行っておりました。それは仏教の戒律を聞かされ、日頃の自分の行いを反省する場です。
 人は生きていると自分の知らない内に殺生をします。野菜を摂取していれば殺生してないから良いというものではありません。人間がキャベツを食べることにより、モンシロチョウの幼虫やミミズが排除されます。でも、野放しにすれば農家さんの出荷が減り、生活に困ります。運送会社の運搬が減り、八百屋さんの売り上げが落ち、消費者の生活が困り、税金が減り国の運営が落ちます。極論ですが、「風が吹けば桶屋が儲かる」が良しも悪しも起こりえます。
 皆自分たちが生きることに必死なのです。
 だからこそ反省し、思考停止状態を作ってはなりません。そのために月に一回は自分の行いに反省してほしいのです。
 あなたの花や植物の生命も実は人間が生み出した傲慢さからその不安な気持ちは来てませんか?人間が花を守っているのでなく、花が人間に守られるように咲いているのではありませんか?
 果たして、弱いのは植物でしょうか?

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ