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主人の不倫について

回答数回答 2
有り難し有り難し 7

主人に不倫されました。
不倫を許し裏切られを短い期間で4回繰り返しました。
バレる度に主人は土下座をし捨てないでくれと泣きついてきます。
主人の両親に土下座されたりまだ子供が小さいこともあり離婚は踏み留まりましたがもう心が限界に近いです。
毎日死にたくてたまりません。
私はどうしたらいいですか?
このまま我慢し続けることが周りのためでしょうか。
もう何も分かりません。
生きていくことが怖いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

二人で宗教心(菩提心)を持つ

人は倫理観、モラル、宗教心で自分の心を戒めることがなければ豊かな人間性を持たないということです。
過激な表現をすれば「人は宗教心や道徳心を持たなければ首輪をしない野犬に等しいものだ」と言われた時代もあったものです。
本当に優先すべきことは家庭の安心です。あなたのパートナーはそこに理解がなく、自己愛ファーストなのでしょう。だから人間には宗教心やモラル、道徳、まともな人間性が必要なのであり、それを高めることには終わりはありません。
結婚というものの本当の在り方は儀式や形式ではなく、きちんとお互いが共通する人間性・宗教心を持ったうえでの第三者の公式な戒めがあった上での「聖約」が行なわれなければ本当はエゴイストとエゴイストの共同生活になってしまうところがあると思います。だから昔から冠婚葬祭は宗教が関係してきたのでしょう。現代ではほとんどが形式だけですので「神仏を敬う精神」=「人間性をキープすること」よりも自分の・自分流の・自分独自のルールが尊重優先されてしまい、夫婦がお互い共同で目指すべき心の豊かさの方向性を見失われてしまうようなことが起こるもんです。
キリスト教にも仏教にもいわゆる「十戒」「十重禁戒」というものがあるのは、あらゆる人間は戒律を重んじることによって、無問題な人間性がキープされると言う事でもあるのでしょう。
これを機にそろそろ自分たち夫婦にはそろそろ本当に宗教と言うものを取り入れて家庭を守っていくためにもエゴ優先よりも先人たちが尊重してこられた神仏を敬う精神を儀式や形式としてではなく、きちんとその精神性を取り入れようと思って見てはいかがでしょうか?そのためにこそ宗教と言うものは存在しているのです。別に葬式のための仏教ではありません。
生きた人間が生きている間に、その人生が苦しみやトラブル、問題や悩みの内容に取り入れるものが仏教であり、本来の宗教と言うものでしょう。
宗教を学ぶよりもまともな人間性を持っておられる方は無宗教でもいいかもしれませんが、それなしに無宗教真であることは非宗教的=エゴイスティックな生き方にならざるを得ない面があります。
私は妻と子供たちと共に菩提心を大切にしています。私が到らない点があれば子供にも詫びます。
どうか菩提心を持ってください。夫婦でお互いに人間性を高めるための指針として心に保持することで互いに尊重し合う気持ちが高まるでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ゆっくりとお話なさってみてはいかがでしょうか?

拝読させて頂きました。
何度も繰り返されていたらあなたも限界になるのももっともかと思います。ご主人がそのようなことを繰り返すのには原因があるでしょう。
できればご主人もあなたも第三者の方にお話を聞いてもらってもいいかと思います。お二人一緒の時もあればそれぞれに個別で相談してもいいかもしれません。
ここでもいいかと思いますし、専門医やカウンセラーの方々にその胸の内を聞いてもらうこともいいかもしれません。
いずれにせよあなたもあなたの中でため込んでしまった我慢の限界に達する前にあなたの中から出してしまってもいいでしょう。
ご主人も自分の思いを人に聞いてもらう中で何かしらの気づきになり、問題解決のきっかけになればいいと思います。
あなたも大切な方ですし、ご主人も大切な方ですからね。あなたとご主人のこれからの未来の為にもゆっくりとお話なさってみて下さいね。
あなたのことも、ご主人のことも応援していますね。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

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