自死した同僚がこの先安らかに過ごすには
同僚が自ら命を絶ちました。苦しみを抱えながらも精一杯明るく過ごしていたため、私達は呆然としています。
自ら死を選んだ人は、その後も苦しみ続ける、ということをhasunohaで拝見しました。
でも、現世で苦しみ、あの世でも苦しむのなら、同僚は永遠に救われないことになります。
私達にできることは、ありませんか。同僚があの世で笑って安らかに過ごして欲しいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏様は全てのものを救って下さいます
拝読させて頂きました。
ご縁のある親しい方が突然お亡くなりになり、あなたはとてもショックを受けていらっしゃるでしょうし、悲しい思いをなさっておられることでしょう。
そして「自ら死を選んだ人は、その後も苦しみ続ける」という話をどこかでご覧になってとても疑問に思っておられることでしょう。あなたのお気持ちを心よりお察しします。
先ずお亡くなりになられた方が必ず仏様に救われて心安らかになります様心を込めてご供養申し上げます。至心合掌 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ
その方は必ず仏様がお導きなさって下さり、先に往かれた親しい方々やその方のご先祖様方が必ずその方をお迎えになさって下さいます。その方は皆さんに優しく迎えられて心から安心なさり、仏様のもとにて一切の迷いや苦しみや痛みからも救われて心から安らかになります。その方は仏様のもと皆さんと一緒に円満に心清らかにご成仏なさっていかれます。そしてご家族の皆さんやあなたをはじめ親しい方々をこれからも優しく見守っていて下さいます。その方とご家族の皆さんやあなたとのご縁はこれからもずっと続いていくのです。
その方はとてもつらい思いを抱えて必死に生きていらしたのでしょう、様々な出来事の中でいろんなことに追い詰められて心身とも疲れ果ててしまったのかもしれません。或いは心身ともに病にかかりとても苦しんでおられたのかもしれません。そうした中でその方に残った選択肢は自らの死に向き合っていくことしかなかったのかもしれません。その方のその時のお気持ちはわかりませんけれども、その方にとって道はこの世から離れていくことだったのかもしれません。
もう既にその方はこの世の苦しみや悩みからは解き放たれておられて仏様のもとで心から安心なさっておられます。
あなたもどうかその方が安らかなれと仏様に願い心を込めてその方をご供養なさって下さい。あなたのその思いは全て仏様やその方に届きます。あなたのお気持ちを優しく受けとめて下さいます。
「自ら死を選んだ人は、その後も苦しみ続ける」というのは「与えられた命を大切しましょう」という意味での方便です。仏様は必ず私達全てのものを必ずお導きなさって下さいます。そして全てのものがその苦しみや迷いから離れていく教えをお伝えになさって下さいます。
あなたもどうか与えられたそれぞれの命をこれからも大切になさって下さいね。
あなたの宗旨に沿った方法を確認する
こんにちは。
前回も回答しました。
先ずは、お悔やみ申し上げます。
「自ら死を選んだ人は、その後も苦しみ続ける、ということをhasunohaで拝見しました」と書いています。過去の回答のどこに書いてあったのかは分かりません。
あなたに「できること」は、あなたの宗旨に従った方法で亡き人を悼むという方法です。というのは、仏教各宗派によってその方法は違うので一概に言えないからです。
「私達にできること」とした場合も、同様です。
それぞれ宗教の信仰の有無、宗派の違いがあるために、一概に言えません。
先ずは、あなたの宗旨の教えを聞いてください。
今は、youtubeなりの動画で様々な紹介がされています(ただし、情報源を確かめてからにしましょう)。
亡き人を悼むということは、形式だけでは不十分です。
なぜ手を合わせるのか。
その時に何と発するのか。
南無阿弥陀仏なのか、南無釈迦牟尼仏なのか、南無大師遍照金剛なのか。
それはどういう意味なのか。
これをある程度把握した上で、悼むという行為は内実が伴ったものになります。
ご自身の宗教、宗派を確認の上、或いは未定であれば様々な教えを聞いた上で自分にとって得心のいく方法を先ず追求することが、亡き「同僚」にとっても、あなたにとっても大切なことだと思います。
追善供養
あぶくさま
同僚さんのこと、誠におつらいことでございます。
どうかより善き赴き、より善きご仏縁がございますようにとご供養申し上げます。
「自ら死を選んだ人は、その後も苦しみ続ける、ということをhasunohaで拝見」・・それは間違いであります。
次の生、来世のありようは、その「自死のみ」の行為だけで決まるものではありません。
業(カルマ)によるところとなり、それは過去世、現世の全てのそれまでにおける業によって決まっていくものとなります。
気が遠くなるぐらいはるか昔から、それこそ数兆年前からと考えても良いでしょう。輪廻している中における業によるところでありますから、その一つ一つの行為は、大海の一滴にもならないぐらいのものなのであります。
もちろん、大海の一滴にしかならないとしても、功徳を積み続けていくことで、その大海を功徳で満たすこともできるようになります。
もし、それまでの業の総合が、仏縁、功徳に恵まれたもので、非常に清らかで善いものであれば、その生の最後は自死であっても、次の生、来世では、天や浄土で人間よりも良い立場にて生まれることも当然にあり得ます。
よりその一滴一滴を強く大きなものとしていくならば、しっかりと仏道に精進することが大切なことになります。
また、功徳は共有する、向けた相手に届けることができます。回向と申します。
追善供養と申しますが、同僚さんのために是非、善い行いをなさられてそれを届けてあげて頂けましたら、より善き赴きへ向けて力になると存じます。
追善供養につきましては、下記拙法話もご参照下さいませ。
拙法話「追善供養」
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
Kousyo Kuuyo Azuma様。
釋悠水様。
お時間を割いてくださりありがとうございました。一面からでなく、多角的な視点で同僚の心に向き合いたいと思います。
残された我々が精一杯生きることも忘れないようにしたいです。
ありがとうございました。
川口英俊様。
「自ら死を選んだ人は、その後も苦しみ続ける」という説を真っ向から否定してくださりありがとうございました。
同僚の安らかな暮らしを願い、冥福を祈ります。