五十代からの老病死のとらえかた
こちらではいつもお世話になっております。五十代半ばの男性です。ここ何年か題名の通り、老病死を強く意識するようになりました。それまでは頭にはあったもののほとんど気にしないで生きて来ました。
(老)に関しては、平均寿命から残り何年いきられるか?とか実感するようになったり、いつの間にか回りやテレビで活躍する人達がみんな年下で、二回りも下もいたり。またあと数年で還暦というと愕然とします。なにもできないまま年だけとったように、そんなはずではなかったのに等と考えてしまいます。ケアはするようにしていますが体力も目に見えて衰えて来ました。白髪も増え、目も悪くなって来ました。
(病)(死)に関しては今のところ大きな健康問題はないのですが、両親を内臓系の悪性腫瘍で亡くしているので、毎年の人間ドックが異常に不安です。食生活に気を配り、毎日ウォーキングをしたり等てできる限りの事はしていますが、両親の闘病から亡くなるまでのつらい経験が恐怖を増しているのかもしれません。
老病死という誰もが避けられない苦が急に身近というか、現実見をおびてきた感じでしょうか。
普通に結婚して子供に恵まれ、企業の管理職として並みの生活、人生なのかもしれません。ただなぜか急に老病死が受け入れ難いのです。
これからの余生の心構えについて是非アドバイスを頂けますと深甚に存じます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
もっと追及してみましょう。
Chakuさんは、とても真面目に四苦のことを捉えられておられますね。
とりあえず私は、年金支給者になりましたが、50代の頃は、法話で四苦八苦のお話はしますが、自分ではあまり真剣ではなかったかもしれません。
案の定、2年前に悪性リンパ腫となり、先週も光学検査等を4日間毎日行いました。
もちろん、原因は不摂生と運動不足等、そして自分では気が付ないストレスでしょうね。
これからの心構え等についてですが、
それぞれの年齢になり思うことも行動も違うと思いますが、基本的なことは知識で得たことを、どこまで実践しているかです。身体に良い事や、生きる知恵など、もちろん仏教の教えにはたくさんの知恵はあります。
自分にとって心地よい状況を作ることの中に、仏教を学ぶということを取り入れて頂くことでしょう。
人間は、必ずいつか死を迎えます。寿命が尽きたら(この世の使命が終わったら)死を迎えますから、そのことをまず大前提に、そして生きることを考えれば価値観も変わるでしょう。
難しいことは言えませんが、仏教を学ぶことで、さらなる世界と価値観が広がると思います。
「老病死が受け入れ難い」というのは自然なこと
こんにちは。
「五十代からの老病死のとらえかた」とお尋ねです。
私は四十代なので、「五十代」という未経験の前提を踏まえることは残念ながら出来ません。
あなたは「老病死」を「ほとんど気にしないで生きて来」たけれども、「ここ何年か」で「老病死を強く意識するように」なったのですね。ただ、仏教には特に「五十代から」などの、年代別に特別な捉え方があるとは思いません。
「老病死が受け入れ難い」というのは、至って通常のことだと思います。
私にも同様ですから。
四苦八苦の四苦、生苦、労苦、病苦、死苦のことです。
この苦、は単に苦しいと言う意味ではありません。
思い通りにならなくて苦しいという意味です。
人間は、程度の多少の差こそあれ、日常全てにおいて自分の思い通りにしようとして生活しています。その前提で考えるならば、「老病死が受け入れ難い」というのは自然なことです。思い通りにならない、人間の最大にして共通の課題が、病であり、老いであり、死なのですから。
あなたが、どちらの宗旨なのかは分かりません。
生老病死の向き合い方は、宗派それぞれの道筋があります。
この機会に、法話を聞くなり、座禅に参加するなり、ご自身の宗旨に沿って一歩先の理解を深めてください。
質問者からのお礼
ご返信頂きまして有り難うございました。