気力がでない
一向に気力がでないまま月日だけがすぎ、こんな人生ならないほうがよかったとしか思えません。ないよりマシの人生をいきるくらいなら死んだほうが楽になれるのにと。私が突然死んでも誰も困らないし悲しむ人もいないから気楽は気楽だけど今だに死ねないのは死が怖いから。もし恐怖心がなければ迷わず自殺してたなと。こうして仕方なしどうにかいきてくって無意味ですね。無意味なのも人生のうちという人がいるかもだけどそれは人生といえるのかと。
数十年後まだ生きてて当時を振り返ったら、あの時どうすることもできなかったとしか思えないかもしれません。
どうにもならない人生なら死んだほうが楽としか思えません。
10年の間に気力が削がれ何をするきもおきない自分はどうしようもないなと。
病気もなくアルコール依存症でもないのは幸いだけどもっとプラス思考できる人間ならよかったなと。今更むりなので諦めてますが。
気力が削がれたのと年齢とともに最初から諦めることがふえますが大人はそういう人多いんではと。できる事とやれる事の差がわかると諦めることのほうが圧倒的で何もできないと感じてしまいます。やる前から見切りつけるのはどうかという人いるけどそれはできる人のいうことで能力差があるのは仕方ありません。
能力低ければそれなりにしかできません。だからそれを見越してやる前から諦めるのが当然に。やる前からできないとわかってるものをわざわざ取り組むのはムダです。日本人は他国と比べ自己肯定感が低いですが私もその典型で、何かできても満足せず上にはいくらでもいるとしか思えません。もうこれは子供の時からなので仕方ないです。今更前向き思考にして自己肯定感高くするなんて真逆なことできるわけないので。
なので周りに何も期待しません。期待するだけ裏切りや絶望が大きいからです。
何も期待しないのが今の世の中ちょうどいいです。
どうせそうでしょくらいに思っとかないとやってけません。
気力もないので低空飛行でいつおちてもおかしくないですが。
負けず嫌い人はその性格が何でもプラスに働くのでいいですね、私はそうではないので負けても悔しさゼロ。そんなものかぐらいです。
楽しいと思えたことも今はつまらないのでこのままこうして諦めて生きてくしかないのかなと。人生に疲れました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
心は瞬間瞬間に新しい。合格人生。
仏教では、心は無常であると言います。
心は、同じ気分が24時間途切れず続くわけではありません。
瞬間ごとに新しい心なのです。
頭の中で創作した思考で「気力が出ない」とレッテルを貼ってしまわないようにしましょう。
たとえば、トイレに行くのにも気力が必要で、トイレに行くときに気力は出ているのです。
歩くだけでも、身体が倒れないように操縦する気力が必要で、歩くときに気力は出ているのです。
瞬間ごとに切り取って考えてみると、心はなかなか良い仕事をしています。
気力はある。
ただ、コントロールが下手なだけです。
仏教的には、気力を一番使うべき目的は、苦・無常・無我を悟ることです。
たとえば、心は無常である、瞬間ごとに新しい心であると気付くためにちょっと集中して自分の心に浮かんで消えていく思考や刺激を観察してみましょう。
また、浄土宗では、南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)えれば来世は極楽浄土に行けると考えます。
一日に10回だけでも良いので、「なむあみだぶつ」と口に出すことに気力を使ってみましょう。
来世は極楽。ならばこの人生はハッピーエンド確定の合格人生です。
なーむあーみだーぶ
なーむあーみだーぶ
なーむあーみだーぶ
なーむあーみだーぶ
なーむあーみだーぶ
なーむあーみだーぶ
なーむあーみだーぶ
なーむあーみだーぶ
なーむあーみだーぶ
なーむあーみだーぶ
と、一定リズムで何回か連続で唱えましょう。(たとえば1分間)
念仏は脳のリズム運動なので気力回復に効果があるかもしれません。
あとは、歌を唄うのも良いと思います。
家事をやるときにでも歌を口ずさみましょう。
ミュージカルのように鼻唄交じりに楽しく日常生活を送れたら、低空飛行でもオッケーです。
質問者からのお礼
ありがとうございました。