hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

自分のこの考え方は異常でしょうか

回答数回答 2
有り難し有り難し 20

私は自分や身内•特に親しい友人以外、関心が無いです。
具体的に言うと、いくら親切にしてくれてその人を好きだと思っていても、その人が亡くなっても何の悲しみも関心も持てないのです。関心があるとすれば「香典出すの面倒くさいな」くらいです。

でもその人のことを決して嫌ってるわけではありません。
親切にされたらその分何かしらの形で返したいと思うし、そうやって接してくれていることにとても感謝しています。ただ、その人に何か不幸があっても何の関心も持てないだけです。
逆に良いこと(その人の子どもが大学に合格したとか結婚したとか)があっても、「あ、そう」という気持ちで喜びも嫉妬も何も無いです。

でも私は、今までたくさんの人に愛情や気遣い等色々なものをもらってきた人生だと思うので、今後はそれを誰かに与えられるような人になりたいと思っています。

しかしその一方で、他人の人生に一切関心が持てません。

これを主人に話すと「サイコパスだし異常だ。それが小さい頃からそうなら天性のものだからどうしようもないね。子どもをもうけるとその子が将来犯罪者になりかねないからやめておいた方がいい」と言われました。

私のこの考え方はそう言わせるほど異常なのでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

だからこそ求められるのが宗教的精神

もう死んじゃった昔の坊さんがこう言ってました。
「人間は人間というても、宗教精神が無けりゃぁ首輪をしない野犬と変わらん。」と。現代では問題発言扱いされるでしょうが、本質を突いた言葉です。
別にあなたのことじゃァありません。
誰でも。誰もが。
旦那さんももっと優しい人であれば、かみさんにサイコパスとか言わん。
だから、旦那さんももっと優しい心、宗教精神を身に着けるべき。
あなたも自分でどこかドライだなぁと欠けている感じがあるのであれば家庭環境の中で養ってもらえなかったやさしさ、温かさ、慈悲心、慈しみの心を動物や他人と、命との関わり、宗教学習の中で養うことをお勧めします。
私も口数が多い言葉足らずの一本足りん坊主なのでまだまだ宗教心が足りません。誰もが、みんな。みんながみんな。
だからこそ求められるのが宗教的精神なのです。
聖人君子だけ立派な宗教者じゃなく、自分が、自分も。
アンパンマンは君さーという歌の響きにいつもそれを感じます。
誰もアンパンマン任せ。だれもアンパンマンを助けない世の中じゃないですか。あなただけじゃァないのです。みんなが。だからあなたはそこが欠けていると気づいた分、とても尊い。素晴らしい気づきです。だからこそ求められるのが宗教的精神。仏教的精神。
あなたがあなたの補うべき心、智慧、ハートフルなやさしさをあなた自身が欲しい!と発起するのです。それは欲しいと願っても欲ではなく、菩提心。
欲は欲でも人を助けたいとか、もっと良くなりたいという欲はエネルギー。向上精神。我欲じゃぁありません。
ある家庭では、みんなで旅行に行こう、というとき、現地に集合するのだそうです。別々で旅行。あわわ、すご。
それはそれで、まぁ、なんでもありません。

人間は自分の都合を最優先にしてご都合ご都合ファーストになるとご都合主義という仏教とはちょっと違う方向性の人間性になります。
時代はスマート至上主義、便利さ、利便性、都合都合…。
それは確かに便利ですが何か欠けていませんか…。
その「何か」が何であるかを求める旅も人生における自分自身の宗教的精神の求めの始まりなのです。
学校じゃぁ教えてくれません。
自分で求めなければいくつになっても始まりません。
そういうハートふるな精神が無いまま高齢者になって死んでいく人もいます。
心の渇きに疑問を感じたらいつでもお電話ください。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

感情とは何か

とか、生きるとはどういうことか、などを理論的に学んでみるといいかもしれませんね。
 スマナサーラ長老の『ブッダの実践心理学』全7巻の仏教哲学アビダルマについての「説法」が、この世とこの世以外の世とこの世を超えるすべての物事を簡潔に説明しています。感情は、第3巻「心所」に、生きることは、読み終えた全体に、説かれています。
 前の質問を見ると、怒ることなどもあるようなので、感情の正体を突き止めるとか、感情がどうやって生まれてどうやって消えるのかとか、調べると面白いかもしれません。

{{count}}
有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本仏教、浄土真宗ということで活動しております。 先祖供養とか功徳回向とか、みんなお釈迦様が最初からおっしゃっていたって、ご存知でしたか。私たちも謙虚に堂々と日本仏教しましょう。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
色々考えてみます。

煩悩スッキリコラムまとめ