自分のこの考え方は異常でしょうか
私は自分や身内•特に親しい友人以外、関心が無いです。
具体的に言うと、いくら親切にしてくれてその人を好きだと思っていても、その人が亡くなっても何の悲しみも関心も持てないのです。関心があるとすれば「香典出すの面倒くさいな」くらいです。
でもその人のことを決して嫌ってるわけではありません。
親切にされたらその分何かしらの形で返したいと思うし、そうやって接してくれていることにとても感謝しています。ただ、その人に何か不幸があっても何の関心も持てないだけです。
逆に良いこと(その人の子どもが大学に合格したとか結婚したとか)があっても、「あ、そう」という気持ちで喜びも嫉妬も何も無いです。
でも私は、今までたくさんの人に愛情や気遣い等色々なものをもらってきた人生だと思うので、今後はそれを誰かに与えられるような人になりたいと思っています。
しかしその一方で、他人の人生に一切関心が持てません。
これを主人に話すと「サイコパスだし異常だ。それが小さい頃からそうなら天性のものだからどうしようもないね。子どもをもうけるとその子が将来犯罪者になりかねないからやめておいた方がいい」と言われました。
私のこの考え方はそう言わせるほど異常なのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
だからこそ求められるのが宗教的精神
もう死んじゃった昔の坊さんがこう言ってました。
「人間は人間というても、宗教精神が無けりゃぁ首輪をしない野犬と変わらん。」と。現代では問題発言扱いされるでしょうが、本質を突いた言葉です。
別にあなたのことじゃァありません。
誰でも。誰もが。
旦那さんももっと優しい人であれば、かみさんにサイコパスとか言わん。
だから、旦那さんももっと優しい心、宗教精神を身に着けるべき。
あなたも自分でどこかドライだなぁと欠けている感じがあるのであれば家庭環境の中で養ってもらえなかったやさしさ、温かさ、慈悲心、慈しみの心を動物や他人と、命との関わり、宗教学習の中で養うことをお勧めします。
私も口数が多い言葉足らずの一本足りん坊主なのでまだまだ宗教心が足りません。誰もが、みんな。みんながみんな。
だからこそ求められるのが宗教的精神なのです。
聖人君子だけ立派な宗教者じゃなく、自分が、自分も。
アンパンマンは君さーという歌の響きにいつもそれを感じます。
誰もアンパンマン任せ。だれもアンパンマンを助けない世の中じゃないですか。あなただけじゃァないのです。みんなが。だからあなたはそこが欠けていると気づいた分、とても尊い。素晴らしい気づきです。だからこそ求められるのが宗教的精神。仏教的精神。
あなたがあなたの補うべき心、智慧、ハートフルなやさしさをあなた自身が欲しい!と発起するのです。それは欲しいと願っても欲ではなく、菩提心。
欲は欲でも人を助けたいとか、もっと良くなりたいという欲はエネルギー。向上精神。我欲じゃぁありません。
ある家庭では、みんなで旅行に行こう、というとき、現地に集合するのだそうです。別々で旅行。あわわ、すご。
それはそれで、まぁ、なんでもありません。
人間は自分の都合を最優先にしてご都合ご都合ファーストになるとご都合主義という仏教とはちょっと違う方向性の人間性になります。
時代はスマート至上主義、便利さ、利便性、都合都合…。
それは確かに便利ですが何か欠けていませんか…。
その「何か」が何であるかを求める旅も人生における自分自身の宗教的精神の求めの始まりなのです。
学校じゃぁ教えてくれません。
自分で求めなければいくつになっても始まりません。
そういうハートふるな精神が無いまま高齢者になって死んでいく人もいます。
心の渇きに疑問を感じたらいつでもお電話ください。
感情とは何か
とか、生きるとはどういうことか、などを理論的に学んでみるといいかもしれませんね。
スマナサーラ長老の『ブッダの実践心理学』全7巻の仏教哲学アビダルマについての「説法」が、この世とこの世以外の世とこの世を超えるすべての物事を簡潔に説明しています。感情は、第3巻「心所」に、生きることは、読み終えた全体に、説かれています。
前の質問を見ると、怒ることなどもあるようなので、感情の正体を突き止めるとか、感情がどうやって生まれてどうやって消えるのかとか、調べると面白いかもしれません。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
色々考えてみます。