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過去のことをクヨクヨ悩んでしまいます。

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過去のことをクヨクヨ悩んでしまいます。
仕事やプライベートでの悩み、学生時代にやんちゃをしていたのでその時のことなど
過去のことを思い出しては
なんであんなことしてしまったんだろう。そんなことした俺はダメな人間だなどと考えては
クヨクヨすることがここ1年くらい続いています。
また、「中学生の時、ある友達の家で友達に迷惑かけてしまったかも」と
過去のことで、しかも迷惑なんてかけてないはずなんですが不安になってモヤモヤしてしまいます。
家族に聞いても「その当時その友達の家に1度も行っていなかったでしょ、
それでどうやって迷惑かけれるの?勘違いだよ」と言われても記憶が曖昧だったり
記憶違いなのか頭になんとなく映像などが浮かんで、
どう考えてもやってないような事で「もしかしたら」といちいち悩んでいるのです。
また、最近では街ゆく女性をエロい目で(エッチしたいなとかセクシーだなとか)
見てしまうようになってしまい
自分はダメな人間だ。最低だと悩んでいます。
今は空元気でもいいから元気でいようと思っています。
「空元気も元気。元気なふりでも心が軽くなる。」という
言葉も聞きますがどうでしょうか。

またスマホアプリを使って瞑想もはじめました。
しかし、根本的な解決方法が知りたいです。
どうしたらクヨクヨせずに前を向いて歩いていけるようになるでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分が何をやっているのかを見極める

言葉を捨てて自分がやっていることを見てみましょう。
過去のことを振り返っていると思っているでしょう。
違います。
今日も新たに今日思うことで自分を傷つけているのです。
過去の事実は終わり果てています。
確かに過去においてつらいことはあったでしょうが、それでもそこで傷ついたのもその時あなたが自分を傷つける思いを起こしたのです。
そして、それを繰り返しているようですが、それも今日自分が新たにそれを思い起こしてそれプラスそこにネガティブな思いを添えたのです。そこを見極めてみることです。
私ならこう考えます。
OHー、今日もオレはまた新たに今日という最も真新しい最新の一日を用いていたずらに過去のネタで新たに俺をDISっているぜ!変態だ!と。
如何に愚かしいことをしているのだろうと、反省も含めて自分DISりをやめて真に反省すべきことを反省し、今日を新たに生きるでしょう。
心の苦しみは自分が何をやっているかをきちんと見極めることで妄想の繰り返しから覚めることができます。

多くの人は過去に縛られていると思っている。
違うのです。
今日新たに自分を汚しているのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

反省も含めて自分DISりをやめて真に反省すべきことを反省し、今日を新たに生きる

これにつきますね。

自分をDISるのを止めてみます。すぐには難しいかもしれませんが、徐々にでもやめてみます。

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