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失敗談

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とある場所に、失敗談を投稿した事を後悔しています。

その時は、辛い事を投稿する事で乗り越えたかったというか、誰かの反応を期待していたのですが、後になってから恥ずかしくなってきました。

その失敗談は今でも掲載されたままで、沢山の人が見たと思います。

後から恥ずかしくて仕方ないのですが…
なんであんなの投稿したんだろうと。

誰も気にしてないでしょうか?
気にしなくていいですか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

気になさらずに

拝読させて頂きました。
それも一つの学びだと思いますよ、様々まちがいや失敗を繰り返して人は成長しますからあなたがそのように書かれたことは必ず誰かがご覧になって参考になさるでしょう。そしてその失敗を踏まえて次の成功につながっていくと思います。ですからあまり気になさらなくていいと私は思いますよ。あなたを心から応援してますね!これからもどうか失敗を恐れずがんばってくださいね!
因みに私もここで自分のいろんな失敗談を書かせて頂いています。皆さんの参考になっているのかちょっとわからないですけれども。

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個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

失敗談は「すべらない話」に転じて人を救済せよ🥒

キュウリもヤサイも救済する。
過去の失敗談もこのhasunohaでは誰かを救う働きになっているのです。
優れた仏弟子はお釈迦さまや祖師たちに対して、あえてみんなが問題にしていることをわざと聞いてあげたそうです。うちのお寺でも小さい頃から開かれていた坐禅会で長く参加している人がわかっていない人たちがわかるようにあえて進んで老師に質問してくれている人がいました。
それは功徳になるのです。
あなたの恥は功徳。
誰かを救う功徳となり、自分自身も成長するはたらきとなる。
ネットならばなおさらのことです。
あなたの質問を嗤うような人は相手にしなくてもいい。
いじめっ子レベルの人間性にとどまっているような人たちだからです。
あなたは善意、人間性、心の善玉菌を高めて困っている人を救ってあげるような気持ちでその失敗談もまたより多くの人々を勇気づけ、向上させ、力づける作用と転じるべきでしょう。
言葉には罪はありません。
読む人がそれをどう生かすか。どうより良い方向へ導くか。
このhasunoha内でも時々問答でプチ炎上することもあります。
それでも大事なことは誰かを悪者にすることではなく、誰かを嗤うことでもなく、石を投げることでもなく、それを通して救いに導くこと、人間性の高みに向かっていくことです。あらゆる迷いや苦しみや問題は、迷いや苦しみや問題のままにさせておくことの方が迷いであると知るべきです。
あなたを嗤う人たちがいるとしたらそれも世間がまだまだのレベルなのだということなのです。クラスでいじめが放置されているようなものではないでしょうか。
だからこそ、仏教では菩提心を説いているのです。
菩提心とは自分も悟りや涅槃、涼しい人間性を求め、関わる人たちすべてを仏法によって安楽、救済、救いに導こうという最高最上の精神です。
全人類を救うまでは死んでたまるかというぐらいの根こそぎやす頼に導く精神が菩提心です。関心があれば飯田トウ隠というお坊さんを調べてみてください。
臨済宗の南天棒という豪傑僧侶をも上回り、曹洞宗の歴代禅師をも遥かに凌ぐ大禅僧です。そういう人の生き様や語録に学ぶこと。そして、あなた自身も菩提心を持つこと。菩提心は各自が持つべき各自の善玉菌活性化精神と言えましょう。菩提心を高く持てば持つほどに、あなたの今の悩みはきゅうりのタネの8分の5ぐらいに小さなものに変わるでしょう。🥒

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

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