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生きてても何一つ楽しいことがない

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有り難し有り難し 17

生きてても楽しいことがないどころかしんどいと思うことしかありません。気になる人にアプローチかけても反応が薄いです。

次第に心当たりはないものの自分がなにか悪いことをしてしまって嫌われているのではないかと思うようになりよりしんどくなるだけです。

恋愛や仕事そのほかいいことなく生きてても死んでてもなにも変わりないと思ってます。

かといって自殺する勇気なんてないですし、事故や病気やらで殺してくれないかなと日頃から考えてしまいます。

不健全な考え方なのは分かっています。なので何をどう変えるとまだ生きていたいと思えるのかアドバイス頂けるとありがたいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

意識をシフトチェンジ

今のあなたの生活に不足してるものがあるという考え。ここが問題なのでしょう。
スタートが自分に「足りないものがある」そう思っているから辛いのです。思いの根っこはどこかと言えば、ご自身の脳です。あなたが「思っている」のです。これは「思い」事実ではないのです。仮に人から足りないと言われたとしても、事実は満たされている。

私の娘は一般的には重度障害者といわれる子供です。しかし何不自由なく生きています。足りないことなんてありません。自分で食事ができなくても、喋ることができなくても、座ることすらできないですが、全てを受け入れ生き生きと生きています。

人は思い通りに生きることはできません。思いとは自我を握ったときにおきるエゴ的要素の強いものですから、それを満たそうとする行為は貪りの心です。
これは一生満たされないので苦しいに決まってます。

どんな人でも生まれながらに仏と言われるのはそういうところからです。思いに視点を置かず事実に目を向けてほしいです。
まだ見たもの、耳で聞こえたもの、鼻で香ったもの、舌で味わったもの、身体で感じたもの、そうした事実には思いはないですから、理想も希望も比較も、損も得も、善悪も何にもない。不足のないあるがままがそこに満たされてます。意識をシフトチェンジしてみてください。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

自分の性格のルーツ調べ と 今後の自己表現の改善

どこかしら無理しているから人生つまらないのかもしれません。実際、そうなんじゃないでしょうか。
こういっちゃなんですが、きっと迎合迎合でいい顔してきたんじゃないでしょうか。
自分の控え目な性格とか誰かに合わせようとする態度は何で生まれるのか。どうして、それが習慣になってしまっているのか。どうしてそうしてしまうのか。家族で第一子だったり、長男だったり、家庭教育だったり?色々な過去。なんらかの影響によるものなのではないでしょうか?
だったらそのルーツを振り返って、いつのころからそうだったのかを知るのも面白いことの始まりかもしれません。

当時を振り返って、今、令和の現在も親御さんに対する態度や性格もみつめて、丁寧にルーツを振り返る。どうして、俺はこういう心の反応の仕方ばかりするのだろうか。誰に合わせようとしているのか。何を守ろうとしているのか。どういう心理が生じることでこうなるのか?ということを突き止めてみてはどうでしょうか。
そして、その自分の心理パターンや癖に気づく。
第三者の立場で自分を止め、軌道修正。
いつもと同じようなことを止めてみる。
心底自分がこうしたいという気持ちを最優先にしてみる。
そうすることであなたの本心の底の根っこの方が♨あったかくなり始めることでしょう。血が通う。無理していた自分が動き始める。
ですが、理想が高すぎると何かを理由に動けなくなる。
今後も「でも…今まで通りでいいや」というような態度はやめた方がいいでしょう。そういう反応こそが変わらない自分のキープの元凶。そのも行動も「今こそ…!変えよう…!」と誰に言われたからとか抜きに改めなければ、変わらないと思います。現状キープを選択すれば当然、それを選択した結果がこの身に行われるものです。
大した回答はできませんが、実はここにも変わる機縁がある。あなたの本心が求めている理想回答が他にある。そこに面白いことがあるはずなのです。生きてて楽しいことがないのではないです。自分がどこか無理して状況に合わせて口をとじた貝のような、ぬるま湯安全地帯を選択してきただけなのです。
保身も迎合も自分を愛する心がとっているポジション。
そこからの脱却も向上精神も自分を愛する心がすすむべき安全地帯な人生が面白くなる方向性です。
そのさらに先に菩提心という、人生とあなたの生命が加速する最高の方向性が見えてくるでしょう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

無理はしているのかもしれません。
でももはや自分が無理をしているのかどうかすら気づけない有様です。

ただ自分の性格のルーツ探しと楽しいこと、こうしてみたいを選択することは出来るかもしれないので意識してみようと思います。

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