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もしもの話ばかり考えてしまって絶望する

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有り難し有り難し 12

はじめまして。タイトル通りです。

私はこれまでいろんな失敗をしてきました。さらに最悪なことに、失敗すればミスを誤魔化そうとしたり、言い訳をしてしまったり。

それでもなんとかここまで人の道から外れるような大きな過ちはしないで生きてきました。
しかし過去を振り返ってみると、いつも道を踏み外さない『ギリギリ』を歩んできたなあと思います。本当に今の自分があるのは、運と環境のお陰です。
たまたま周りに相談できる人がいたから、たまたま予備や保険があったから、たまたま大事にならなかったから。

これから先、未来のことは、「常に誠実でいよう」「失敗をしても正直に告白しよう」と、前向きに考えられます。

けれども、「もしもあのとき相談できる人がいなかったら?」「もしもあのとき代わりが見つからなかったら?」「もしもあのとき大事になっていたら?」と、ふと『もしも』の話が頭によぎってしまうのです。
「もしも明日地球が爆発したら?」という馬鹿げた話ならば一蹴できるのですが…

これから起こるかもしれないことではなく、既に終わってしまったことの「もしも」を考えたところで、現実は変わらないことはわかっています。

「危ない橋を渡ったけど結果オーライ!次から気を付けよ!」くらいに現実を受け止めるにはどうしたらいいでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

毎回事実確認で生きる。

📞もしもし、もしもし、こんにちは。
下に、下にの低姿勢、シモシモ丹下です。シモシモ。
('◇')ゞ
「もしも」についてよく考えてみてはいかがでしょう?
「もしも」は現実ではなく、想定です。アタマ。
「もしも」はアタマでアタシが考えた最悪の事態を想定したモシモ・ワールド。入場料無料。一度入ったら不安を伴いますが、防衛や警戒としては役立つ。でも、心配過剰にもなる。ハマるとヤミツキ。やめられない。
「もしも」は99%起こるかもしれないけど、100%起こるわけではない。
「もしも」は100%起こるわけではないけれど、99%起きないわけでもない。
「ワシモ」は2014年製、握力2000キロのおばあちゃん。
「もしも」は「もしもこんなことが起きたらどうしよう」と不安に考えれば行動がフリーズする。
「もしも」は「もしもこんなことがあったらうれしいナ✨」と前向きに考えれば夢・希望の心のトッピン具。
「もしも」はアタマの妄想なので99%ではなく100%の思いです。
つまり
「もしも」は100%頭で考えたことだということです。
そして
「もしも」ならざるものこそが100%の現実。生きた目の前。結果。現実。実際。なので事実確認を慎重に行うことで妄想は晴れます。
「もしも」じゃないことは具体的になにか。
みえること、聞こえている今の事、呼吸、生きている現実、思ったことではないこと。
「もしも」とさっきまではずっと考えていたけれど、結局、今どうだったか。
「もしも」こうなったらどうしようと考えていたことの本質は振り返ってみると、慎重で過剰な不安症のアタシの防衛ビジョン。
では、
「もしも」この「もしも」思考よりもクオリティの高い生き方があったらどうしよう。
「もしも」このアタシの心配性で、その場の空気に流されやすくて、他人の目を気にしてしまう、見栄っ張りな性格を治せる生き方があるとしたら、また「もしも」思考で「そんな方法なんてない」とあきらめてしまっていいものでしょうか。
「もしもネガティブ思考」を治せるとしたら…、そこに価値を見出すことができれば“「もしも」で凹⤵だとしても「きっと」⤴になるはずです。
「もしも」は上手にポジティブな現実にするためにだけ用いればいいのです。
そうすれば「もしも」これからも「もしも」で不安になりそうな心に陥っても、よりよい選択をできるようになるはずです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
ネガティブ思考とはなかなか縁を切ることは難しそうですが、なんとか前向きに捉えられるように頑張ってみたいと思います。

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