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どこまで人間の業を許せますか

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有り難し有り難し 42

コロナ禍の中、さまざまな意見も飛び交っていますが、私は少数の富裕層が、その他の人間の生き方や社会をコントロールできる今の世の中に疑問を感じています。

例として、ブラック企業で働く人々は、ブラック企業で働きたいと思っていないにも関わらず、そこで働かなければ生きていけないと思い込まされ、被雇用者は経営者に利用され、結局ブラック企業は淘汰されず残り、富は資本家に集まります。どこかで救ってほしいと思っていても、立ち上がることができないのです。

世の中で、また個人の人生のなかでも、全く似たようなことが起こっているのを、友人や知人を見ていてわかってしまいます。しかし、それを言葉にして本人に伝えるのは難しいことも知っております。

ですから、私は少しでも良い社会のために、と署名活動への参加や、できるだけ納得したものだけを購入するといったことを、完璧は不可能ですが実践するように心がけていますが、そういった生き方に対し、ある友人は「私はそこまでして生きたくない、世界はどうなってもいいし、責任を取りたくない」と言い、そういう方こそ生き方に難しさを感じていたりしていてよく相談されたりします。しかし「あなたの行いがあなたの人生を作っている」と正論をぶつけることもできず、難しいものだと思います。どこかで頼られていたり、羨ましがられていると思うこともあります。あなたは頑張っている尊敬する、と言われることが多いですが、その裏には彼らが何かを抱えているのが見えます。

仏教では、こうした社会的な搾取や過ちも肯定し、受け入れるのでしょうか。
最終的には、人類全ての行いとして、その集大成として私たちが絶滅する運命をたどるのだとしたら、それに違和感を感じている私も運命共同体として何もしないべきなのでしょうか。

私は社会に対して、行動をし、考えている人たちを、「やりすぎだ」などということは決してできません。きっとお釈迦様も悟りを得るまでに沢山の思考を重ねたものだと思います。

ワクチン等も強制に対し、「でもそうしないと生きていけないから」と言うのは、あらゆる強制を受け入れた先の、超支配社会を肯定することにつながりかねません。そうしたことに反対し続けるのは、無駄で、現在の人間の行いを無感情のまま受け流すのが、正しいことなのでしょうか?
そこに違和感を感じてしまう私は、人として未熟なのでしょうか。

2021年8月28日 3:00

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

一度整理して考えてみてください

こんにちは。

一読したところで感じたのは、まず一生懸命に思索と行動を重ねるひたむきさです。その一方で、思考の整理と柔軟性を持つべきだと感じました。

「富は資本家に集まり」、「少数の富裕層」から「人間の生き方や社会をコントロール」される、「社会的な搾取」がある、という一面を否定はしません。億万長者はいるし、格差が確かにあります。事業、商売で成功した人ほど注目され、その影響力・発言力がいや増す現実はあると思います。

しかし、「搾取」という言葉を使って社会を説明しようとする時、常に致命的な見落としがあります。それは、「資本家」「富裕層」が没落するかもしれないというリスクを背負っている、という事実への見落としです。

壮大な社会実験とも言える、社会主義・共産主義への憧れがかつて二十世紀にはありました。これは、貴族等の「富裕層」、大商人などの「資本家」が「搾取」しているのだから、これを解体すれば格差のない平等な社会が実現できると考えた旧共産圏の国があったのはご存知でしょう。

結果は、周知の通り惨憺たるものでした。
結局、「富裕層」「資本家」を批判する人が、結局「富裕層」となり、政治的な独裁体制を用いた競争原理の働かない市場で独占的な「資本家」になっただけだったのです。

競争原理の働かない「資本家」がいる社会と、競争原理の働く「資本家」のいる社会。どちらが良いかと言えば、私は後者を選択します。

そして、真に公平、平等を考えるならば、自らの業に思いを致す必要があります。
何故なら、批判する側の「業」は仏様の視点の中で常に反省的に語られるべきだからです。批判は、多かれ少なかれ独善に陥りがちです。

つまり、私がではなく、仏様がという視点です。
あなたが語る「業」は、仏様と一緒に考えようとしている「業」ですか。

ご自身の志向が、過去の歴史の教訓からバランスの取れたものに成っているか。
一つの硬直した見方になっていないか。
仏教的な観点を学び、そこから自分の方向性を見出そうとしているか。

この点を一度整理して考えてみてください。

2021年8月28日 7:21
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有り難し
おきもち

釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
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業は自分のもの

と仏教では言います。漢訳で自業自得です。この意味で、仏教はものすごく個人中心の教えです。
 仏教では、絶対的な神が世界を作ったり人を作ったり有無を言わさず誰かに何かを強制すると見ません。絶対神はいないとさえ言います。業がすべてを動かしていると知っているのです。
 悟りを開き超能力も使える覚者たちは、誰かをマインドコントロールして従わせることなんか簡単でしょうけど、それを絶対にしません。自分で気づいて自分で行動して自分で結果を取るのでなければ自分の成長にならない、善い業にならない、むしろ精神的奴隷を作るだけと、業の仕組みをよく知っているからです。
 しかし、すごく熱心に教えます。「あなたはこういうふうに行動したらいいですよ。こういう考えで生きたらいいですよ」などと、心が成長するように必死で教えます。が、牛を水場に連れていくことはできても、飲むかどうかはその牛次第。導くのですが、強制はしません。ですから、他者を変えようと考えるのは、仏教のやり方ではないと諦めましょう。導くだけ。

 一方で、仏教は因と縁をあまり区別しません。結果は各自が自分のものを受け取りますが、その因は直前の自分の因と周りの様々な縁が同時に来るので、なかなか計算しきれません。
 同様に、自分がすることが周りにも縁となって影響を与えることを知っています。そこで、自分の心の成長のためだけでなく他者への影響も考えて、良い影響だけを周りに与えられるようにと気を付けて行動します。

 そういう見方で仏教はやっていますので、その視点で世間を見ると、例えばコロナでみんなの行動が制限され、命の危険を煽られ、生活が苦しくなる人が増えています。こういうとき政治家や富裕者こそ、と、他者のことも考えてもいいのですが、まず先に、自分でできることをできる範囲で、と行動します。自分こそが困窮したら、正当な生存権を公共団体に向けて主張します。周りの好意にも縋ります。

 業のカラクリをお釈迦様が解明したおかげで、世の中の動きも、仏教者にはよくわかります。分かったからといって、劇的な変化をもたらすほどの業を、仏教者も持っていないかもしれません。せめて周りに良い影響を与えるように頑張って、多勢に無勢だなあとため息をつきながら生きていくのです。そして各人が各自の業をもって、次の生にそれぞれ転生します。悟るまでずっと続く道のりです。
 

2021年8月28日 9:19
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有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
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質問者からのお礼

藤本晃さま、釋悠水さま、

大変ご丁寧で、考えさせらえる回答をありがとうございます。
文字数制限がありましたのでやや乱暴な書き方になってしましましたが、本質を語られたご回答をいただき大変ありがとうございます。また少し考えました。

藤本さまがおっしゃるように、仏教は非常に個人的なもの、というのを先日たまたま知り合いと語ったところでした。であるなら世の中の辛く苦しいことを無くそう、救おうと思うことは無意味なのかと、私は非常に無気力を感じていました。私の周りにはそうして社会問題に対して行動している人も多く、同時にそうした方々は何も社会を大きく変えようとするのではなく、「あくまで自分の周りを幸せにする」という考えが原動力となって動いているのも知っており、また私に対してもあまりにも大変優しくしてくださるために、それらを無意味だとは思いたくないのです。彼らの行い、彼らの努力は無駄なのだろうか、と考えていましたが、藤本様のご回答は、まさに彼ら知人の行なっていることかなと思いました。人生に疲れたからこういうことをしている、と冗談として語っておりました。多勢に無勢をよく知っていながらも行動と慈悲を続けるその姿勢の近くにいると、自分の至らなさがよくわかりました。

実は、釋さまがおっしゃるように資本主義と社会主義・共産主義や、国家、共同体のありかたについて気になり最近ではそういった類の本を読んでいるのですが、先に書かせていただいた、「社会に対して行動している人」というのは彼らもジャーナリストだったり「世の中で起こっている問題を可視化していく」ような仕事をしており、そうした教養・知識に関しては私の比ではありません。彼らは歴史の教訓から、同じ過ちを繰り返さないために活動をしているのです…特に欧米では、ドイツ・ナチスなどの歴史への反省が個人の中にも強く残っているのを実感しています。
ご指摘の通り、私自身のなかではその歴史の教訓から引き起こされる行動が無意味なのだとしたらこの世はなんて生きづらいのだ、と虚無感あるいは、理解されないことへの怒りに到達しておりました。今の世の中はある意味、小説の中の管理社会に向かってまっしぐらであるのに、それに対して何も言わない人々/強い意志を持って行動する人々の両者を間近で見て、さまざまなことに葛藤しておりました。私自身、表現すること、文化に従事するものであり、人間の歴史や考え方を無視してはそういった活動はできないと最近ようやく考えはじめ、その考え方の違いや、エネルギー量は人々のどこからくるのかと思ったのです...どこからくるのでしょうか。

できるだけ近視眼的になりすぎず、かといって大きすぎることを語ることだけにならないよう努めたいと思っておりますが、これが大変難しいもので、皆様からご回答をお聞きしたいと思いご質問させていただきました。

しかし、やはり私はせっかくもって生まれたこの体を、何か周囲への良い働きのために(それも諸行無常であり消えゆくものであっても)、使っていきたいと思う立場かもしれません。それを他人へ押し付けたり「どうしてあいつは何も考えていないんだ」と怒っているうちは、本当の意味での慈悲は遠いのだと思いますが、そういったエネルギーもまた、何かの行動力になると、周囲を見ていて思いますし、表現するものにとってはたまにそのエネルギー量が膨大な人を見るとうらやましくなったりします。

どちらがよい、と言うつもりもないのですが、自分が感じていることについて仏教ではどうとらえるのかと、皆様のお言葉をお聞きしたくなりました。自分は今までの自分の人生が足りていることにこのコロナ禍を通して気付き、ではこれからの自分の理想の生き方とはどういうものだろう、このまま自分のことだけに集中するならば安全な生き方ができるかもしれないが、まだたくさんある時間、そのままでいいのだろうか、でも人々を変えることはできない。

表現者としても「正しい諦め」を持つか、今自分が持っている「怒り」をそのまま受け入れていくのか、どちらともつかない状態であり、人間観察を通してずっと考えていました。ご回答、心よりありがとうございます。

追記: はっとしましたが、競争原理の働く資本主義ではつまり、私たち個人の行いが、より個人の行いの通りに存在できるような社会に一歩近づいている、ということなのでしょうか。もちろんまだまだ不完全であっても。
人間は完璧ではないけれども、そのなかでも試行錯誤を重ねている…。不思議なのは、それであっても「結局は管理されたい」というのが多数のように見えて、共産・社会主義に戻っていくような、でも完全に同じではない。それもまた人類全体の試行錯誤の一部分なのかなと…また、個人と組織は同時に語られるものではないと思うのですが、難しいですね。人生を続けながら、その中で整理し、様々なことをこれからも考えてみたいです。

「世の中・社会のできごと・風潮」問答一覧

現代社会と本来の豊かさについて

悩みというよりは漠然と考えてしまうことがあります。        私は会社を起業し10年ほどになります。     会社とは何か?という本を設立当初に読み、 そこには『社会に必要とされているもの。人の役に立っているから存続が出来、人の役に立たない会社はなくなっていく』と書かれていました。     右も左も分からない中での起業でしたが、自身にそのような志が強くありましたし、その本に書いてある言葉に納得し、一生懸命頑張ってきました。     設立前から準備していたことや、業界を分かっていたこともあり、心身の苦しさや辛さはありながらも、経営は順調に右肩上がりで伸びていきました。 しかし、何処かでとても苦しさのような葛藤がずっとあります。     社会がいかに利益追求型の仕組みで弱肉強食であることを肌で感じること、それでも日々闘い続けねば生き抜けない。 競争社会、資本主義社会という中では当たり前のことだと理解すればするほど。 中小企業の社長さん達も皆んな日々闘い続けているんだなぁと思いながら。     そういう渦中で、自分の心身はいつも振り回され乱れるばかり疲弊する日々が数年続き、 自身を見つめ直したり心を丈夫にする為に色々と模索してきました。     そうした中で見つけたものは、お釈迦さまの教えや禅的な考え方でした。   日本では宗教にハマると聞くと直ぐに悪い意味で捉えられることが多いですが、 何か目印になるような共感できたり学べるような考え方というものに救われることに有り難さが溢れてきて泣きそうになります。   自身が人の為になることを〜と思い起業しましたが、会社を通して社会を知り、そこに向き合った今の時点で想定もしていなかった答えがあったように感じています。   知り合いに若いお坊さんがいますが、もっと遊びましょう、もっと休んでください、自分は人生遊んで過ごします。とよく仰っています。実際夜遅くまで飲みに行ったりしていて、誘ってくることも多いです。(行きませんが) そのお話しも極端に思えて、私には失礼ながら浮世離れしすぎていてついていけません。   長くなってしまいました。 文章がまとまっておらず伝わっているか不安ですが、 お坊さん達は今の資本主義社会と仏教の教えに乖離を感じますか? 感じられる方はどうバランスを取られていますか?

有り難し有り難し 3
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日本が一番ではない

僕が24年間生きている中で日本が一番ではありません。みんなは日本が一番だと言ってますが。日本つまらないし毎日刺激もないし変化が全くありません。サッカーの試合も見ましたがあまりつまらなかったです。なんかサッカーにはスター選手いないので面白くありませんでした。Jリーグの試合見ましたがつまらなかったです。ラグビーの試合見ましたが一方的な展開すぎて全くつまらなかったです。しょうもなさすぎました。日本脱出したいです。お金がないので今年全く関西から出たことがありません。出てみていろいろ体感してみたいです。何も楽しくありません。学生生活も全く楽しくなかったです。 日本生きてますが個性が全くありません。日本人も何となく生きてる人が多いような気がします。日本も少子高齢化が年寄りやおっさんが多いような気がします。僕にとっては楽しくもありません。ランダムチャットも利用しましたが喋ってみても全くくだらなかったです。ランダムチャットしましたがしょうもない人多かったです。考えも偏っているようにも思えます。日本には閉塞感がありすぎてつまらないです。日本楽しくもありません。日本は真面目な人多いので過ちや誰にも迷惑かけてない人が多すぎて万引きやカンニングなどの過ち犯したり人に迷惑かけたり(それは当たり前ですが…)失敗したら許されない国なので自殺者も多いのではないかとも思います。日本自殺大国になると思います。 日本人も世界情勢や世界のことに興味がない人が多いようにも感じます。 日本の気候も暑さ寒さの寒暖差が激しすぎて日本の四季に耐えれず嫌になります。 東京も行きましたがサラリーマンが多く殺伐とした風景や混雑が激しすぎて嫌になります。 今までも教習所で高圧的にされたことや偉そうにされたことやバイト先でも上司があまりにも態度悪い人もいて日本が一番とも思いません。たまたま人の答案が見えてしまったりしました。やっぱり日本悪い国だなと思います。みんな日本いい国やいい国やと言ってますが僕はそう思いません。 僕が思う日本のいいところは治安がいいところと料理が美味しいところと生活水準が高いところぐらいです。どこの国もいいところは最低1、2個はあると思います。 やっぱり僕にとっては日本が一番ではありません。

有り難し有り難し 12
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日本に盛り上がりが全く足りないです

今、大阪にいますけど閉鎖的で盛り上がりもなく楽しくありません。地下鉄に乗っていますが表情が暗い雰囲気を作って楽しくもありません。夜もアメリカのようにパーティーみたいな盛り上がりもなくて寂しいです。日本は閉鎖的な国だとも思います。 ラグビーワールドカップ2019イングランド対アメリカではかなり賑やかやったしパーティーしてたようにも思えます。結構、日本よりも盛り上がっていたようにも思えます。イギリスやアメリカはパーティー文化がある国にも思えます。イギリスやアメリカの方が個性的な人いたような気がします。 アメリカ行ったことがないので自分には分かりませんが日本よりも個性がある人が多いようにも思えます。 僕にとっては10年前頃ですが、明光義塾北巽教室通ってた時は個性的な先生もかなり居ましたし、活気もありました。まあまあパーティー的に盛り上がっていたと思います。明光義塾北巽教室では賑やかでワイワイしてて僕にとっては楽しかったのです。明光義塾北巽教室Twitter(現在はX)では個性感半端ないな。キャラ感凄いなと書いたらいいね1つくれました。親には明光義塾北巽教室勉強するところやのに遊びに行ってた所が怒られました。 そういうの日本ではなかなか無いから寂しいです。日本の閉鎖的な環境が辛すぎてたまりません。パリピみたいな盛り上がりが好きでたまりません。日本は雰囲気が暗い国だなと思います。 日本生きるのが活気と盛り上がりが無さすぎて辛いです。日本人って個性が全くない人ばかりでつまらないです。僕の近所でも全くパーティーみたいに騒ぎがないのがつまらないです。 日本は治安も良くてご飯が美味しいと言う理由からいいって言っていますけど僕はそう全く思わないです。 日本は衰退国家だなと思います。日本は閉鎖的すぎて嫌になります。日本に生きていてもつまらなさすぎて嫌になります。だからアメリカ移住したいです。 四谷学院の校舎長に言われましたが大学は盛り上がりはないと言われ、寂しいです。辛すぎます。大学でも遊びに行っている人や騒ぎに行っている人もいると思います。僕は日本が大嫌いです。日本は同じことばかり過ぎてつまらないです。 サテライトオフィス平野に通っていますが、その事が悩みすぎて集中出来ないことがあります。 日本では盛り上がりや活気が全くないので暗いし寂しいししんどいです。

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日本は姥捨山を求めている

「今の日本は傾いているから誰かを犠牲にしたい」という感情が蔓延している、ということを声を大にして言いたいのです。だから、私のような無能は人権を放棄しなければなりません。そもそも、労働に縛られている時点で普通に生きられている人間にも人権がないからです。 増税や経済的負担に対する抜本的解決がない以上、「障害者をガス室送りにしなければならない」「生産性のない人間をガス室送りにしなければならない」という思想が蔓延するのは必然です。価値のある人間しか生きることを許されないのです。 社会や世界全体への不信感が強烈で、もうどうにもならなくなっています。けれど生きるには労働しなければなりません。私を傷つけ苦しめ貶め殺すためだけの場所に入っていかなければなりません。そうしないと人権が買えないからです。 自分を殺さないと人権が買えない。けれど人権を買ったところでいつ足元が崩れるかわからない。自殺推奨活動のほうがよっぽど慈悲深く思えてしまうのですが。 こんなクソみたいな世界で、どうして自分を殺してまで生きるしか方法がないのでしょうか。どうして、不幸になるしかないこんな世界がいまだに続いているのでしょうか。この怒りをどうしたらいいのか全くわからないのです。 壁を殴ったらヒビが入る。そういう、自分のアクションに対して当たり前の反応が返ってくる、という経験が薄く、その度に苛立ちが募ります。自分が気にならない、話を聞いても何が悪かったのかよくわからないことで長々と詰められ、こちらの言い分は何一つ聞き入れられない。そういう不公平さの中で生きてきたので、何に対しても「自分を殺せばいいじゃない」としか思えません。だって、人間は自分以外の誰かが犠牲になることを望む生き物ですから。私は誰の犠牲になれば良いですか?私の代わりに誰が犠牲になってくれるのですか? どうせどう生きたって誰かに支配されたまま終わるのです。そうしないと人権が買えないから。現実を見れば見るほど嫌な気持ちだけが募ります。この世界に救いはない。あるのは泥のような絶望だけ。はーあ、努力とかくだらない。今まで言われてきた沢山の言葉に対する恨みが消えない。でも他人から見たら悪いのはぜーんぶ自分。やってられない。どうせ「悪いのは私でした」という反省のポーズしか望んでいないのだからロボトミー手術を受けなければ私はこの世界に生きる権利を与えられない。

有り難し有り難し 15
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やはりこの世界は信用に値しない

また新たな戦争が始まりました。明日は我が身でしょうか。 「報道しない日本メディアはダメだ」と言われています。私たちは平和ボケしているのでしょうか。まあ日本が戦争に巻き込まれるのも時間の問題ですね。私たちに未来なんてない。現実なんて汚らしくて残酷なものでしかない。 この世界のシステムに耐えきれなくなった憎悪が世界中で噴出し騒乱を巻き起こしているマクロな事実と、そんな完璧ではない人間という生き物から一方的に「あなたが間違っている」「あなたが変わればうまくいく」と言われ続けたミクロな怒りが混ざり合って何もかもが馬鹿馬鹿しいとしか思えません。だから生きているのが嫌なんだ。 仏教だって結局、生きるも死ぬも理不尽しかないものだから何か納得できるだけの理由をこねくり回した結果でしかないでしょう。「全部私が悪いので悔い改めて、私の全部をこの世界に捧げます」と生きなければこの生命という不愉快極まりないシステムから解放されないのですか。喜んで火の中に飛び込む兎になれと。結局望まれているのは自己犠牲じゃないですか。生き物は、自分のために自分以外のものが犠牲になることを望んでしまうものなのです。 どれだけ努力したところで、自分とは関係ないもっと大きなものによって簡単に潰される。この国のシステムも欠陥だらけで有事に対応できると思えない。いつ殺されるかわからないから、いま生きていることに感謝すべき? そう思うにはこの世界はあまりにも汚らわしすぎます。ずっと言ってきましたよねこの世界は生きるに値しないと。その決定的証拠がまた一つ増えたんですよ。生きるも死ぬも誰かの天秤の上。人権なんて初めからなかった。第三次世界大戦はいつ起こりますか? 私たちは死ぬ準備をしなければなりません。 薄氷の上の平和すら貴重品となってしまった世界で、その平和の中にいながらうまく生きられない罪悪感。自分の在り方を否定され続けてきたが故の「どうせ自分なんていらないんでしょ」という感情と閉塞感。秒読みとなった戦前危機に対する焦り。人間という生き物への困惑。未来に対して絶望視しかできない。こんな世界の中でどう生きろと。けれど何を言われても響きはしない自分自身に対しての苛立ち。今の世界を見ても美しいと言えるでしょうか。 結局、傲慢でなければ生きられない世界。2025年を迎えられるといいですね。きっと無理だろうけど。

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