どこまで人間の業を許せますか
コロナ禍の中、さまざまな意見も飛び交っていますが、私は少数の富裕層が、その他の人間の生き方や社会をコントロールできる今の世の中に疑問を感じています。
例として、ブラック企業で働く人々は、ブラック企業で働きたいと思っていないにも関わらず、そこで働かなければ生きていけないと思い込まされ、被雇用者は経営者に利用され、結局ブラック企業は淘汰されず残り、富は資本家に集まります。どこかで救ってほしいと思っていても、立ち上がることができないのです。
世の中で、また個人の人生のなかでも、全く似たようなことが起こっているのを、友人や知人を見ていてわかってしまいます。しかし、それを言葉にして本人に伝えるのは難しいことも知っております。
ですから、私は少しでも良い社会のために、と署名活動への参加や、できるだけ納得したものだけを購入するといったことを、完璧は不可能ですが実践するように心がけていますが、そういった生き方に対し、ある友人は「私はそこまでして生きたくない、世界はどうなってもいいし、責任を取りたくない」と言い、そういう方こそ生き方に難しさを感じていたりしていてよく相談されたりします。しかし「あなたの行いがあなたの人生を作っている」と正論をぶつけることもできず、難しいものだと思います。どこかで頼られていたり、羨ましがられていると思うこともあります。あなたは頑張っている尊敬する、と言われることが多いですが、その裏には彼らが何かを抱えているのが見えます。
仏教では、こうした社会的な搾取や過ちも肯定し、受け入れるのでしょうか。
最終的には、人類全ての行いとして、その集大成として私たちが絶滅する運命をたどるのだとしたら、それに違和感を感じている私も運命共同体として何もしないべきなのでしょうか。
私は社会に対して、行動をし、考えている人たちを、「やりすぎだ」などということは決してできません。きっとお釈迦様も悟りを得るまでに沢山の思考を重ねたものだと思います。
ワクチン等も強制に対し、「でもそうしないと生きていけないから」と言うのは、あらゆる強制を受け入れた先の、超支配社会を肯定することにつながりかねません。そうしたことに反対し続けるのは、無駄で、現在の人間の行いを無感情のまま受け流すのが、正しいことなのでしょうか?
そこに違和感を感じてしまう私は、人として未熟なのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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一度整理して考えてみてください
こんにちは。
一読したところで感じたのは、まず一生懸命に思索と行動を重ねるひたむきさです。その一方で、思考の整理と柔軟性を持つべきだと感じました。
「富は資本家に集まり」、「少数の富裕層」から「人間の生き方や社会をコントロール」される、「社会的な搾取」がある、という一面を否定はしません。億万長者はいるし、格差が確かにあります。事業、商売で成功した人ほど注目され、その影響力・発言力がいや増す現実はあると思います。
しかし、「搾取」という言葉を使って社会を説明しようとする時、常に致命的な見落としがあります。それは、「資本家」「富裕層」が没落するかもしれないというリスクを背負っている、という事実への見落としです。
壮大な社会実験とも言える、社会主義・共産主義への憧れがかつて二十世紀にはありました。これは、貴族等の「富裕層」、大商人などの「資本家」が「搾取」しているのだから、これを解体すれば格差のない平等な社会が実現できると考えた旧共産圏の国があったのはご存知でしょう。
結果は、周知の通り惨憺たるものでした。
結局、「富裕層」「資本家」を批判する人が、結局「富裕層」となり、政治的な独裁体制を用いた競争原理の働かない市場で独占的な「資本家」になっただけだったのです。
競争原理の働かない「資本家」がいる社会と、競争原理の働く「資本家」のいる社会。どちらが良いかと言えば、私は後者を選択します。
そして、真に公平、平等を考えるならば、自らの業に思いを致す必要があります。
何故なら、批判する側の「業」は仏様の視点の中で常に反省的に語られるべきだからです。批判は、多かれ少なかれ独善に陥りがちです。
つまり、私がではなく、仏様がという視点です。
あなたが語る「業」は、仏様と一緒に考えようとしている「業」ですか。
ご自身の志向が、過去の歴史の教訓からバランスの取れたものに成っているか。
一つの硬直した見方になっていないか。
仏教的な観点を学び、そこから自分の方向性を見出そうとしているか。
この点を一度整理して考えてみてください。
業は自分のもの
と仏教では言います。漢訳で自業自得です。この意味で、仏教はものすごく個人中心の教えです。
仏教では、絶対的な神が世界を作ったり人を作ったり有無を言わさず誰かに何かを強制すると見ません。絶対神はいないとさえ言います。業がすべてを動かしていると知っているのです。
悟りを開き超能力も使える覚者たちは、誰かをマインドコントロールして従わせることなんか簡単でしょうけど、それを絶対にしません。自分で気づいて自分で行動して自分で結果を取るのでなければ自分の成長にならない、善い業にならない、むしろ精神的奴隷を作るだけと、業の仕組みをよく知っているからです。
しかし、すごく熱心に教えます。「あなたはこういうふうに行動したらいいですよ。こういう考えで生きたらいいですよ」などと、心が成長するように必死で教えます。が、牛を水場に連れていくことはできても、飲むかどうかはその牛次第。導くのですが、強制はしません。ですから、他者を変えようと考えるのは、仏教のやり方ではないと諦めましょう。導くだけ。
一方で、仏教は因と縁をあまり区別しません。結果は各自が自分のものを受け取りますが、その因は直前の自分の因と周りの様々な縁が同時に来るので、なかなか計算しきれません。
同様に、自分がすることが周りにも縁となって影響を与えることを知っています。そこで、自分の心の成長のためだけでなく他者への影響も考えて、良い影響だけを周りに与えられるようにと気を付けて行動します。
そういう見方で仏教はやっていますので、その視点で世間を見ると、例えばコロナでみんなの行動が制限され、命の危険を煽られ、生活が苦しくなる人が増えています。こういうとき政治家や富裕者こそ、と、他者のことも考えてもいいのですが、まず先に、自分でできることをできる範囲で、と行動します。自分こそが困窮したら、正当な生存権を公共団体に向けて主張します。周りの好意にも縋ります。
業のカラクリをお釈迦様が解明したおかげで、世の中の動きも、仏教者にはよくわかります。分かったからといって、劇的な変化をもたらすほどの業を、仏教者も持っていないかもしれません。せめて周りに良い影響を与えるように頑張って、多勢に無勢だなあとため息をつきながら生きていくのです。そして各人が各自の業をもって、次の生にそれぞれ転生します。悟るまでずっと続く道のりです。
質問者からのお礼
藤本晃さま、釋悠水さま、
大変ご丁寧で、考えさせらえる回答をありがとうございます。
文字数制限がありましたのでやや乱暴な書き方になってしましましたが、本質を語られたご回答をいただき大変ありがとうございます。また少し考えました。
藤本さまがおっしゃるように、仏教は非常に個人的なもの、というのを先日たまたま知り合いと語ったところでした。であるなら世の中の辛く苦しいことを無くそう、救おうと思うことは無意味なのかと、私は非常に無気力を感じていました。私の周りにはそうして社会問題に対して行動している人も多く、同時にそうした方々は何も社会を大きく変えようとするのではなく、「あくまで自分の周りを幸せにする」という考えが原動力となって動いているのも知っており、また私に対してもあまりにも大変優しくしてくださるために、それらを無意味だとは思いたくないのです。彼らの行い、彼らの努力は無駄なのだろうか、と考えていましたが、藤本様のご回答は、まさに彼ら知人の行なっていることかなと思いました。人生に疲れたからこういうことをしている、と冗談として語っておりました。多勢に無勢をよく知っていながらも行動と慈悲を続けるその姿勢の近くにいると、自分の至らなさがよくわかりました。
実は、釋さまがおっしゃるように資本主義と社会主義・共産主義や、国家、共同体のありかたについて気になり最近ではそういった類の本を読んでいるのですが、先に書かせていただいた、「社会に対して行動している人」というのは彼らもジャーナリストだったり「世の中で起こっている問題を可視化していく」ような仕事をしており、そうした教養・知識に関しては私の比ではありません。彼らは歴史の教訓から、同じ過ちを繰り返さないために活動をしているのです…特に欧米では、ドイツ・ナチスなどの歴史への反省が個人の中にも強く残っているのを実感しています。
ご指摘の通り、私自身のなかではその歴史の教訓から引き起こされる行動が無意味なのだとしたらこの世はなんて生きづらいのだ、と虚無感あるいは、理解されないことへの怒りに到達しておりました。今の世の中はある意味、小説の中の管理社会に向かってまっしぐらであるのに、それに対して何も言わない人々/強い意志を持って行動する人々の両者を間近で見て、さまざまなことに葛藤しておりました。私自身、表現すること、文化に従事するものであり、人間の歴史や考え方を無視してはそういった活動はできないと最近ようやく考えはじめ、その考え方の違いや、エネルギー量は人々のどこからくるのかと思ったのです...どこからくるのでしょうか。
できるだけ近視眼的になりすぎず、かといって大きすぎることを語ることだけにならないよう努めたいと思っておりますが、これが大変難しいもので、皆様からご回答をお聞きしたいと思いご質問させていただきました。
しかし、やはり私はせっかくもって生まれたこの体を、何か周囲への良い働きのために(それも諸行無常であり消えゆくものであっても)、使っていきたいと思う立場かもしれません。それを他人へ押し付けたり「どうしてあいつは何も考えていないんだ」と怒っているうちは、本当の意味での慈悲は遠いのだと思いますが、そういったエネルギーもまた、何かの行動力になると、周囲を見ていて思いますし、表現するものにとってはたまにそのエネルギー量が膨大な人を見るとうらやましくなったりします。
どちらがよい、と言うつもりもないのですが、自分が感じていることについて仏教ではどうとらえるのかと、皆様のお言葉をお聞きしたくなりました。自分は今までの自分の人生が足りていることにこのコロナ禍を通して気付き、ではこれからの自分の理想の生き方とはどういうものだろう、このまま自分のことだけに集中するならば安全な生き方ができるかもしれないが、まだたくさんある時間、そのままでいいのだろうか、でも人々を変えることはできない。
表現者としても「正しい諦め」を持つか、今自分が持っている「怒り」をそのまま受け入れていくのか、どちらともつかない状態であり、人間観察を通してずっと考えていました。ご回答、心よりありがとうございます。
追記: はっとしましたが、競争原理の働く資本主義ではつまり、私たち個人の行いが、より個人の行いの通りに存在できるような社会に一歩近づいている、ということなのでしょうか。もちろんまだまだ不完全であっても。
人間は完璧ではないけれども、そのなかでも試行錯誤を重ねている…。不思議なのは、それであっても「結局は管理されたい」というのが多数のように見えて、共産・社会主義に戻っていくような、でも完全に同じではない。それもまた人類全体の試行錯誤の一部分なのかなと…また、個人と組織は同時に語られるものではないと思うのですが、難しいですね。人生を続けながら、その中で整理し、様々なことをこれからも考えてみたいです。