人生のすべてを失ったので死にたいです
私は、人生のすべてを失いました。
すべてを失い、何も残らなくなりました。
仕事も、プライベートも、自分が望むことを欲してやってきました。それは、周りよりも自分が優れている、自分は自分が望む生活をしている、その欲のためにやってきました。自分以外は全て敵、自分はそれを上回なければならない、それだけを思ってやってきました。
しかし、仕事もプライベートも、そのせいで最期に失敗という形で突き付けられました。自分よりも、優れた生活をしている人間ばかりになってしまった。自分よりも、充実した人生を送っている人間ばかりになってしまった。そう思い知ったのです。
自分は、仕事もプライベートも何もかも失くなった、無残な人間の残骸です。最早、この世で生きたいと思えなくなりました。何もかも失い、立ち直る気力すらも失せ、絶望という真っ暗闇に置き去りにされた自分です。
自分は、今まで失敗だらけの人生でした。過去に失敗をして、現在で失敗した。自分の全てが無くなったことで、これ以上生きる意味はないのです。
願わくば、自分に死ぬための力と覚悟を授けてください。お願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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選択してください
こんにちは。
あなたは、「仕事も、プライベートも」「自分以外は全て敵、自分はそれを上回なければならない、それだけを思ってやってきました」と書いています。
「仕事」で余人を凌駕する業績を残したい、これならわかます。
ただ、「プライベート」で「優れた生活」とは一体なのを指すのでしょうか。
文章で具体的には書かれていませんが、恋愛を含めた人間関係、所有物、社会的地位といったところでしょうか。
「敵」という認識は、敵、味方という基準からの判断です。
「優れた」という認識は、優、劣という基準からの判断です。
「失敗」という認識は、成功、失敗という・・。
それらは、すべて自分中心の視点から見た判断に終止していませんか。
自分以外は「敵」。自分だけが味方。
自分は劣っておらず、「優れて」いる。それ以外の結論は認めない。
成功が自分にこそ相応しく、「失敗」をする自分は認めない。
自分中心の視点と、自分を中心にした三つの判断基準。
あなたの人生は、「生きる意味」はこれが全てなのですか。
周囲を見回せば、味方はすでにいるのではないですか。
あなたが敵だと思っているだけで。
「優れて」いることがそんなに重要ですか。
別に優劣自体をジャッジすること自体必要はないのでは。
20代で「失敗」といっていますが、成功するための「失敗」だとは考えませんか。むしろ、「失敗」の積み重ねにしか成功はありえないと思いますが。
あなたが、自分を中心にした三つの判断基準から動きたくない、回答僧も「敵」であると考えるなら、ここでの回答はあなたに何も響かないでしょう。
自分を省みるか、現状維持か。
ご自身で選択してください。
質問者からのお礼
追記で、もう少し詳しくお伝えしようと思います。
私は、仕事に対して拘りの価値観を持っていました。発達障害まみれの自分を理解してくれること、自分に対して正当な対価と評価をしてくれること、その2つを自らの生命線として頼っていました。
しかし、その2つとも叶えられないことに私は絶望し、仕事を壊しました。その結果、今まで執着しなかったプライベートに執着するようになり、この世界で存在感を示すこと、No.1の地位を示すこと、それでこそ自らを証明できると血迷ってしまいました。
私はゲームが好きな人間です。そのゲームで、常に周りより優位であること。そうしなければ、私の存在は卑しい存在に堕ちてしまうこと。私はただそれだけを胸に、自らも敵として生きてきました。
しかし、結局はそれすらも達成できないまま、自分より優れた人間の存在を見せつけられたことにより、遂に私は全てを失ったのです。
全ては、劣った才を引き継がされた時点で、こうなる運命だったのだと、私は理解をせざるを得ません。もはや私に、これ以上の気力は残されていないのです。だからこそ、死を以て、この世から開放されることこそが、私にとっての最後の全てであると、そう認識したのです。
死ぬことの何がいけないのでしょうか?人は死にたいと思えば、死んでしまえば良いのではありませんか?生きるか死ぬか、決定権はその人にあります。それを他人が決めるのは、冒涜というものであり、それこそが自由ではないでしょうか。
私はただ、死ぬ自由を選び、それを実行に移す力と覚悟が欲しいだけなのです。ただそれだけなのです。それを、生きる道に精通した方々にご教示いただきたいと思い、今回の投稿に及びました。
それなのに、全てを失って、後は死を迎えるだけ、その力と覚悟を授けてほしいだけなのに……これまで以上に生というものを考えるようになりました。
私は今まで、阿修羅のごとく、人生は勝ってナンボ、負けることに意味はなく、価値もない。常に自分自身にも勝ち続けることこそが、絶対条件である。そうでなければ、人は衰え、朽ち果てるものだと、そう信じてきました。それこそが、私にとっての全て、この世を形成する、絶対神である、と。
成功も、失敗も、それは結果だけに過ぎず、それだけが全てなどではない。本当は、そう信じたかったのです。しかし私は、そんなものは眉唾だと切り捨て、勝利が全ての世界に陶酔するようになりました。その結果がこれです。
どうして私は、こんなに歪んだ存在になってしまったのか……私はずっと苦しんでおります。阿修羅の如く、戦いに明け暮れ、休まることのなき人生を、どうして私は歩んでしまったのでしょうか。
そうなるべき過去を歩んだからなのか、そうしようと願った未来を歩んだからなのか、今になっては知る由もありません。ただ一つだけ言えることは……釋さまのお言葉は、私がやりたかったことを全て体現してくださったことです。