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両親の事で悩んでいます

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実家の両親の事で悩んでいます。両親は昔からよく喧嘩をしていて、その事についてはもう私も麻痺しているのか何も思わなくなったのですが、この度両親が別居を始めたそうなのです。
毎日言い合いするくらいなら距離を取った方がお互い良いだろうと私も思うのですが、長年夫婦でいたからでしょうか、やはりしばらく連絡がないとお互い気になるようで、それぞれの状況確認を私にするように連絡してくるのです。
私は現在実家から電車で40分ほどのところに住んでるのですが、育児中なのとコロナ禍という事で、テレビ電話で確認をしています。
しかし、正直なところ気になるならそれぞれが私に言わずに直接やり取りをしてくれればいいのにと思うのです。仮にやり取りが気まずいのであれば、実家に妹がいるので、そちらに言ってほしいのです。
両親に言わせれば妹は離婚問題で迷惑を掛けられたから役立たずだと言うのですが、私では出来る事に限界もあります。実際妹の方が何かと動きやすいと思うのです。
それともう一つ両親に対しての悩みがお互いの愚痴を延々と聞かないといけない事です。これはハッキリ嫌と言えない私にも問題があるのは分かってるのですが親だから、私は娘だからとつい聞いてしまうのです。
ですが、お互いの愚痴を聞き、私なりにアドバイスをしても活かされず、また同じ愚痴・・・。そして母親からは泣きながら私が遠くに住んでしまったのが1番ツラいと言われるのです。
私は先程電車で少し掛かる所に住んでいると書きましたが、そこは主人の実家の近くでもあるのですが、それも母親に言わせれば主人が自分から離れさせたと思ってる様なのです。
でもそれは土地の値段や急に手を借りたい時などは義実家の方が借りやすいといった事で私も納得してるのですが、母は納得していないみたいなのです。
そして、そんな風にツラいツラいと言われると、まるで私自身がとても悪い事をしたみたいな気になって苦しくなるのです。
この両親とのやりとりに終わりがあるのか、まだ無いにしてもどうすれば自分の気持ちを落ち着かせて相手をする事が出来るのか。
大変長くなってしまいましたが、何か助言をいただけますでしょうか?よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

誰であっても関われるのはお互いに良いこと・良い心があるから

まず、誰にとっても喜ばしいことを取り戻しましょう。
「カカワレルモノ」「カカワレルコト」「ヤサシキコト」…
安らぎ、楽しいこと、良いこと、好きになれる事、受け入れられることは人類みな「共通している」ということです。
仏心とは「ヤサシキコト」であり「全自動でカカワレルコト」と言っても良いでしょう。
それが家族同士のトーク、関わりの際にあるか。
「それ」をお互いやっていない!…ということはありませんか?そこはが親子、夫婦、兄弟に限らず、人間関係の基本的な関係性です。
家族同士でお互いに「よきこと」が失われていることを会話を行うごとに思い起こしてみましょう。
ただし…!
人間はお互いが不満・燻りがあると、その不満を先に「直してほしい!」という心理が先立つのです。それは万人共通。我慢にも限界がある。だから何とかしてほしいと困っているのです。だから、あなたにも頼ってこられる。「どうにかしてほしい」と。話を単純に。ご本人たちが困っているだけでしょう。あなたの場合もたまたま時期的に、仕事的に忙しいことがあれば手に余ることはあるでしょうが、どんな悩みも誰の悩みも要は親としてここのところのトゲを抜いてくれないか、と言っているわけです。

どうか、家族の安らぎ・こころの庭を取り戻すためにもこれをテーマに家族全員で話してみてください。話す際にも感情的に力づくて押し通そうとすることもその時点でアウトです。それも万人共通の安らぎを破壊・失わせることです。
まず、お互いのアウトプット、言い方、態度、表情をネガティブなものを排除し合う。「そういう言い方やめようね✨」と。建設的に。善導的に。笑顔の為に。♡のために。お互いの困っている故の苦痛ボイスなら仕方ありませんがネガティブ言語や態度は完全排除してお互いが喜べることを共有することです。
それなしに自分が自分が俺が俺が私が私がということをやっているからお互いが尊重されないのではないでしょうか。
家族の最終的な理想形はそれぞれの出離・独立・自由という意味での出家。
夫婦でも兄弟でもたとえ双子であってももともとDNAも完全に位置ではありません。
それでもそれぞれの人間はそれぞれ共通して「関わり合えるもの」がきちんと共通しているのです。家族ですから♡
それを探し、取り戻すために、をモチベーションに頑張ってみてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下 覚元様
回答有り難うございます。もしかすると私自身も自分が自分が…と無意識でもなっていたのかも知れません。今すぐには両親の問題は解決しないでしょうが、いただいたアドバイスを忘れずに頑張ってみようと思います。

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