怒りを抑えすぎ病気になりました。
お世話になります。何度も難病に悩まされながらも、仕事をしてきましたが、数年前に大きな持病を抱え、仕事も辞めないといけないかもしれません。心臓の不具合も出てきたので検査します。何年元気でいられるか分かりませんが、障がいある子どもを抱えて生きた母たちや亡くなった方々のために祈りを捧げて、出家しようかという考えがよぎります。結婚もしたかったのですが、障害者の家は駄目だと言われることも多く、心が折れてしまいました。
そうこうしているうちに子どもも望めない年齢になり、家庭に憧れていたので、とうとう作れなかったことに辛くて仕方がありません。同年代の友達は、ごく普通に家庭を持ち、悩みながらも幸せのようです。精一杯やってきました。弟の世話も、母の愚痴にも。家族間の争いにも。血の繋がらない叔母には、あんたみたいな子、結婚なんかできへんわと祖母のご遺体の前で嗤われました。母は実家をかばって、私を庇わなかった。耐えました。なのに報われなかった。愛されなかった。だから私は幸せとは縁遠いんだと。その虚しさを仕方ない、それが人生だと思えません。悩みに対し、返信していただけたらありがたいです。
追伸ですが、実は退会しようとして見直したら、一度も相談していないことに気づき、文面を整理して書きました。皆様の問答を読むことで少しずつ対応しようとしてきたからです。自明灯という言葉がよぎります。完璧には癒されないと思いつつ、最後に質問いたします。
お世話になります。何度も難病に悩まされながらも、仕事をしてきましたが、数年前に大きな持病を抱え、仕事も辞めないといけないかもしれません。何年元気でいられるか分かりませんが、障がいある子どもを抱えて生きた母たちや亡くなった方々のために祈りを捧げて、出家しようかという考えがよぎります。結婚もしたかったのですが、障害者の家は駄目だと言われることも多く、心が折れてしまいました。そうこうしているうちに子どもも望めない年齢になり、家庭に憧れていたので、とうとう作れなかったことに辛くて仕方がありません。同年代の友達は、ごく普通に家庭を持ち、悩みながらも幸せのようです。精一杯やってきました。弟の世話も、母の愚痴にも。家族間の争いにも。血の繋がらない叔母には、あんたみたいな子、結婚なんかできへんわと祖母のご遺体の前で嗤われました。母は実家をかばって、私を庇わなかった。耐えました。なのに報われなかった。愛されなかった。だから私は幸せとは縁遠いんだと。その虚しさを仕方ない、それが人生だと思えません。悩みに対し、返信していただけたらありがたいです。
持病がありながら、独りで生きて行かねばならない。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
他人と比較すれば誰もが羨むものですよね。
拝読させていただきました。
人により幸せの感度は異なるものですよね。隣の芝生は青く見えるように、他と自己を比べることで、優劣感・劣等感が芽生えるものです。その時どちらの感情も抱かない人は、他と比較していない人になりますよね。
釈迦は「他人のしたことしなかったことを見るな。自分のしたこととしなかったことだけを見よ」と説いてくれています。
単純である言葉であるものの中々、いや相当難しいことですよね。
1+1=2となり、1+1=3には基本ならないものです。+1を出せば3となるのも分かります。この「1」が自分になく、他人がもっているものと勝手な自己感情が生み出す欲なのです。
「欲は欲をつくり果てることがなく、足りていると思う強い気持ちが平常心を取り戻すのです。」
ようは欲はキリが無いと仏教では説き、渇愛と呼称します。四苦八苦では求不得苦と呼称します。
自身にないものをいつまでも掴もうとする執着が邪魔をしていることに気付くことが自身を楽にする一つの鍵となるものです。
人生は旅です。目指す到達地は他人の幸せの場所ではなく、自身の平穏の境地こそが人生のゴールです。生まれたときから、人の生きる道とゴールという到達地を会得していれば人には苦労もなければ感情も不要であり、人と人が交差する必要もなくなるものです。苦もあれば楽もあり、苦しみを知るからこそ、楽を知り得、仕事をするから休みが有り難いと思えるように、さまざまな感情の連続です。しかし、ここで仏教で説きますのは、何事も“かたよらない・こだわらない・とらわれない”ことです。
・考え“過ぎない”
・頑張り“過ぎない”
・我慢し“過ぎない”
ということであり、自身を時には客観的に見つめる時間が、何かに囚われていることに気付けたり、何かの思考に偏っていたり、形成された認識が「普通は!私は!」という固定観念が邪魔をしていたりするものです。
この認識作用は基本的に六根という「眼・耳・鼻・舌・身・心」が知らずの内に汚染されていることが大半です。自然や神社仏閣などを訪れることで忘れていた清らな感情がふと取り戻せる機会もあります。
これからですよ。人生には年齢で幸せは計れなく、他人と比較しない、身内からの罵声なども過去であり、自分らしく生きて輝いてやりましょう。小さくてもいい人生に自分らしい花を咲かせれば、人生すべてに無意味はなかったと
質問者からのお礼
法源様、回答ありがとうございます。平穏とは無縁の人生と思って生きてきました。探しても見当たらないので諦めていたのです。空っぽの心のまま人に尽くして、とうとう怒りが突き抜けて自分を傷めてしまった経過がありました。極端な人生でした。お寺は大好きで、御世話になっている真言宗のお寺にお訪ねし、お話を伺うことも多いです。「普通は!私は!」という固定観念が邪魔をしていたりするものですというお言葉、私は長く普通と自分に境界線を感じていました。
人生には年齢で幸せは計れなく、他人と比較しない、身内からの罵声なども過去であり、自分らしく生きて輝いてやりましょう。小さくてもいい人生に自分らしい花を咲かせれば、人生すべてに無意味はなかったと。この力強い励ましのおことば、何よりです。置かれた場所で咲きなさいというシスターの言葉を思い出しました。よろめきながら、生きてきました。体が良くなりましたら、お寺にお訪ねさせてください。ありがとうございました。