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人から嫌われるのが怖い

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有り難し有り難し 26

私はとても臆病です。そして相手のことが信用できません。
言い訳ばかりして目の前の相手から怖くて逃げてしまいます…。最低なことをしてきたなって思います。
でも本心では相手ともっと仲良くなりたい。本当は心と心で分かり合えたらいいのに…という気持ちがあるのになかなか上手くいかないです。
相手をもっと信頼しなきゃだめなのに。
家庭環境や学校でも色々あってそのトラウマもあるのですが、過去のことばかりに囚われててもこれから先、生きていけないし…なにより他人と繋がりたいと願ってるのと、人の役に立ちたい、少しでも幸せにしたいと考えてるので、一体どうしたらいいのでしょう。

自分の心を知るために本などを読んだり、日記を書いたりしてます。こういったものは効果ありますか?
いつも気遣って気疲れします…。他人の言葉に「これはこうなのかな?」とかいちいち考えたり、「私がこう言ったら嫌に思わないかな」とか心配しすぎて発言したくなくなります…。面倒な私だと思います。
失敗ばかり頭に浮かんでは、もういいやと諦めてしまっていました。ありのままに生きてみたいです。どうしたらいいでしょうか。自分らしく生きる方法を教えてください。
あと出来れば少し褒めてほしいです…。少しだけ…。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

たとえ雑草や虫は嫌いと言われても生命活動そのもの🌱

💀こんにちは僧侶業界の嫌われ者、閲覧注意の怪答僧丹下、またの名を一本足りない凡下と申します。こっそりご覧いただき、見なかったことになさってください。(笑)
みんなが救われる質問をありがとうございます✨
私の申し上げる言葉もそうですが、ネットのあらゆる画像、情報、ツイートは見る人から見れば薬となり、毒となり、笑いとなり、嫌悪・嘲笑の対象となる。
人間の四六時中の行動、アクション、言動も同じです
そのものには人の評価なんてありません。
あなたの存在もそうです。凶悪殺人犯がイケメンだったらファンやおっかけ腐女子がいる一方で、アイドルの追っかけをする男性たちはキモオタ呼ばれながらもアイドル業界の経営を支えてくださる大事なスポンサーです。
だから、何をするにしてもそれを受け取める人次第。人の受け止め方なんてこちらから注文つけられません。相手に悪意があれば悪く受け取られてしまうとか、悪く言われるという世の習い、人間心理があるというだけですから、そこを深く学べば嫌われて全然オッケーという心理に到達します。たとえば、あなたの悪意のなかった純粋な行為をけなしたり、ヘイトするのは悪意。貶め勢力の嫌悪はつきものです。人気者になったり、知名度が上がれば評価は両方ついてくるのです。スイーツと同じと考えましょう。おいしいもの、甘くておいしい分カロリーもしっかりついてくる。
つまり、世の中生きていればおおよそ誰かからは嫌われて当然であり、必然のオプション的なライト嫌悪なのです。芸能人・アイドル・タレントだってみんな人気者なのに嫌われているでしょう。それでも平気に活動している人たちを見習いましょう。
ゴミも嫌われようが、肥料になる。土になれば植物、花を咲かせ、果実を実らせるエネルギーとなる。
それが世の中の一切の存在の性質です。側面と言ってもいいでしょう。
あなたは嫌われることを恐れておられるようですが、嫌われる・嫌われたということの本質を直視する勇気がないだけでは?こういうことを言ってしまうと私も誰かから嫌われますので他のやさしいお坊さんの回答もお待ちください。
嫌われるとはサッカーボールのある側面・一部のようなものです。他人の評価とは好きか嫌いか、白か黒だけでしょうか?🐼それはSNSというもの。
人間のこころの評価はもっと繊細です。アリガタシポチは結構です。新しい評価を見つけましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。あなたのことはちょっと苦手ですが参考にはなりました。嫌われる本質は捉えようとしてますよ。ですがうまくできないのが事実です。毎日のように自分と向き合ってるので…。主観的に見てしまうくせがあるので客観的に見ることは大事だと思いました。
他人の幸せや価値観も計り知れないというか、人間複雑すぎて人間辞めたい。
あまり負の側面ばかり見ないようにします…。

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