笑顔でふるまう、良い人止まり
私は常に笑顔でいることを心がけています。
笑顔でいればケンカすることもなければ巻き込まれることもありません。
よく友だちや女性に何でそんな良い人なんって質問されます。自分では良い人だなんて思いません。
嫌なことは嫌だし、ただそれを他人にあたったりケンカ越しになっても仕方がないと考えています。
良い人どまりなのは自分にも何か原因があることはわかっています。
ただ自分の笑顔でいるという考えは恋愛において間違っているのでしょうか?
もっと自分の感情をさらけ出す方が良いのでしょうか?
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
腹が立っても、悲しくても 笑顔でいたらそれは痛々しい。
キッドさん
“ただ自分の笑顔でいるという考えは恋愛において間違っているのでしょうか?”
間違っているとは思いませんが
合っているとも思いません。
あなたは可笑しくなくても、笑っているのですか?
“私は常に笑顔でいることを心がけています。”
素晴らしい心がけだと思います。
“よく友だちや女性に何でそんな良い人なんって質問されます。”
それ本音なの?と疑われているのだと思います。
面白いことがあれば笑い
腹が立つことがあれば怒り
悲しいことがあれば泣くのが自然だと思います。
腹が立っても、悲しくても
笑顔でいたらそれは痛々しい。
心の笑顔まで!
笑顔は人と人とのコミュニケーションで非常に大切なものです。笑顔という表現を獲得した動物は人間しかいません。人間の顔の筋肉は人間に近い動物のお猿さんの顔と違い、30種類以上の筋肉によって作られるそうです。キッドさんのあり方は間違っていないと思います。
ただし・・・・
形だけで笑顔を作るだけだと疲れてしまいます。心が喜びになっていない人工の笑顔ですから疲れるのは当然です。心身が一致した本当の笑顔を作ることが大切です。そのためには心を磨かなければなりません。自分がどうすれば心が笑顔になるのか。すでにキッドさんは答えをもっているようですね。そこからまずは分析してみてください。
また私たちは仏さまではないのですから、いつも笑顔でいられるわけがありません。どうしても辛いこともあります。その気持ちをわかってくれる人を作ることも大切です。それは近くはキッドさんのいう恋人かも知れません。本来は夫婦とはそういうパートナーかも知れません。または尊敬する先輩、仕事場の上司かも知れません。または私たちお坊さんがそのような存在にならなければなりません。そうやって苦しみ悲しみを我慢して笑顔を作るのではなく、苦しみ悲しみを解決して心がいつも笑顔にできる人生を作っていくのです。合掌
○か×ではなく 心からの笑顔が出来れば それがステキ!
キッドさんは、どんなきっかけで笑顔でいることを試みるようになったのですか。
自分の中からの気づきですか。何か本を読んだり、人の振る舞いからそう考えたのですか。キッドさんが笑顔でいようと心がけていることは、私は素晴らしいことだと思っています。私自身も、そうありたいと思っている一人です。
和顔愛語-「和顔愛語(わげんあいご)にして意を先にして承問(しょうもん)す」
「柔和な表情と、慈愛のこもった言葉をもって、苦しみ悩む人々に寄り添い、その人のまことの願いをいち早く察知して、相手の心をくんで問いかけ、救いの手をさしのべていく」『仏説無量寿経』より
これは、阿弥陀如来さまが私に届けてくださる働きを讃えた言葉です。
この言葉が仏教徒だけではなく、今では広くビジネスの世界にも紹介され、社会生活を営む上で多くの人々が心がける指針の一つとして知られています。
仏さまの働きを讃えた言葉ですから、煩悩を抱えた私たちにはこの和顔愛語を完璧に実践することは出来ません。だからといって、「自分の感情のままに生きればいい!」と開き直るのはしっくりしません。私なら、自分の限界を知りながらも、謙虚に続けていきたいです。そして、笑顔でいられない時には、その気持ちを素直に表現できる場所や人に出会うことも、これからの人生には大切だと思います。笑顔でいられる自分も、笑顔でいられない自分も(表も裏も)知った上で関わってくれる人に出会うと、本当に心強いですね。
キッドさんの笑顔が、周りの人々に自然に広がっていきますように。
このハスノハへ勇気を持ってお声かけを頂き、有り難うございました。キッドさんのこれからを、ハスノハが応援しています。ご縁に感謝!!合掌
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございました。
自分自身が心から笑えるってとても素晴らしいことですね。
私自身、心から笑顔でいられるように自分を磨いていきたいと思います。
そして、何でも言える相手を見つけたいと思います。