賀茂祭でお供え物になりたかった鯉
鴨長明の『発心集』における仏教について質問です。
聖人が死にかけている鯉を池に戻したところ、
聖人の夢の中で鯉が「賀茂祭でお供え物になれば生まれ変わって苦しみから解放されるのに、聖人が余計なことをした(池に戻した)せいで台無しになった」
と言って聖人に怒っている内容のものがありました
平安時代の日本の仏教では
殺生を受けてもお供え物にされることで畜生は生まれ変われるという考えがあるのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
事実だとしても
まず、フィクションである可能性があります。
また、事実だとしても夢ですから、著者の妄想思考である可能性もあります。
それらの要素を差し引いて、鯉の言い分は、業の問題ですので、全くないとは言い切れません。
ただ、事実というよりは、当時ある程度日本にも伝わっていた仏教の情報によって、著者が作ったか夢に見たのではないでしょうか。
似たような話がジャータカでしたか何の物語でしたか、あります。
あるバラモンが犠牲祭のためにある羊の首を刎ねようとしたら、その羊がはらはらと泣くので、「どうして泣くのか、殺されるのが嫌か」と尋ねると、「そうではない。私は遠い前世で人間であったとき人の首を切って殺し、羊に生まれ、五百回、首を切られる業を受けた。今回が最後の五百回目なので、嬉しいのだが、私の首を刎ねるあなたの来世の業はどうなるかと思うと、急に哀れになったのだ」と答えた。
それを聞いてそのバラモンは、その羊だけでなく犠牲祭を、つまり生贄を使う供養を催すこと自体をやめたそうです。
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
仏教の発祥地にも似たような話があるとは興味深いです。
生贄は世界の様々な宗教にありますが、現代においては、保護の観点から生贄は無くすべきという考えが強いです。一方で生贄は神のために続けるべきと考える人もいるので、
動物の命に関する問題はとても難しいと思います。(だからこそ何度も悩んでしまうのですが)