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普通になれないので諦めてもらいたい

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有り難し有り難し 17

発達・鬱持ちの精神障害者です

正社員を目指し就活であったり、体力作りにバイトや派遣などを挑戦していました

ただ、結果として自分は1ヶ月程度の週4フルタイム程度でガタがきて、ダメになってしまいました

激しい動悸や息切れ、涙が溢れて手が震え
心臓が痛くてどうしようもなくなりました

元気に振る舞って、元気だと思い込んでいきました

その思考が、もう、頑張れないになりました

目の前が真っ暗になりました

ただ、家族の前では平然としたように振る舞っている、そう見えているからか、普通を求められます

普通に働いて、普通に家事をして、普通に自立をして

それが普通で、当たり前で、理想です

でも自分には無理なんです

今回の週4日の仕事も生活習慣を整えて運動をして、精神も肉体も、準備万端で備えてました

今までの自分で一番頑張れる状態で頑張っていました

仕事は自ら志願した体力がいらない事務業務です
それでも発達特有の不注意からかミスを連発し、しっかり意識をしてと何度も指導されました
自分はそんな意識をする程度のことで治るならやってるよと思いました
自分だって精一杯頑張ってるつもりなのに、誰にでもできると言われることをできなくて、悔しくて悲しくて情けなかったです

自分の頑張りが泡になって消えたように思えました

もう、家族からも誰からにも期待されず、応援されず、普通を押し付けられず生きたいです

普通を手放してしまいたいです

どうしたら周りや家族から、普通の人生を歩んで欲しいという思いを諦めてもらえるでしょうか

どうしたら楽になれるでしょうか


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

できること むいてること やれること 迷惑かからんようなこと

そりゃぁ、大変だったねぇ。おかわいそうに。ナデナデ。よしよし。
無理しなくていいですよ。合わねぇところに身をおいてもまいってしまうだけ。
音楽だって自分が心底好きな音楽があるはずでしょう。
ごはんだってそうです。
仕事だってそうです。
仕事っつったって仕事ということとしてみると重くなる。
この手、この足、この体が「なにをやるか」。
やっていることの本質はただ手を動かし、口を動かし、顔を動かしているだけ。
それはどんな高度な仕事であろうが、簡単な仕事であろうが、やっていることは同じでしょう、人として、人間の活動として。
だったら、自分が負担なく、周りにもめーわくかけんでいーことをやろうよ。
良寛さんも「世の中に交わらぬとにはあらねども一人遊びぞわれはまされり」とかいうような歌を詠んでます。簡単に言えば人間関係めんどくせーけど、だからと言って世の中に関わらんわけでも無し。でもそれでも一人でいることが人間結局ラクなんだよね、と。
たまにあう友人、親友だって、丸一日ずっといたらつかれるかもしれませんよ。
つまり人間は誰でも一人キャラ、ソロキャラ、個人活動、天然出家、独立、自立、単独国家なラスイチの単体機種なのです。
だからこそ、自分の命やフィットする完成を大事にしてください。
あなたがあなたのまんまで気を貼ったりしなくてもいいような職場はあります。
あなたは誰かの期待に応えようと、いわゆる一般の人と同じになろうと努力したんだと思う。でも、うまくいかんかった。それは、その場がたまたまムイテネーバ(向いてない場所)だったというだけですから、深く、むずかしく考えたり、過剰に落ち込んでいいのですよ。

誰にでも自分に本当に向いていることがある。向いてないことがある。
今回の事もまなび。べんきょうになった。
そこから今後はこれ以上自分が苦しまないように、より良い方向へ軌道修正すればいいだけです。
それがあなたの求めるべきフツー。周りの求めるフツーとは別モンですよ。
あなたはあなたのできる自分史上最高のあなた限定の普通を求めればいい。
その普通であればだれもあなたを傷つけないし、あなたも誰も傷つけない。
ただし、誰もがそういう気質なのだからこそ、他人さまにもやさしく尊重・いたわりの気持ちを持つことです。私も同じ。あなたの苦手なあの人も同じ。ダレモガ誰もが。その同族意識があなたを救う。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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