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六道輪廻の理屈がわかりません。

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畜生道に行ったとし、犬猫になったとしたら、お盆に帰るとされるのは空想上のは犬猫ですか?現実世界の犬猫は、なんなのですか。人と畜生は、現実世界に存在するので、二層空間の世界観なのですか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

六道輪廻

へりくつ子さま

六道輪廻につきましては、それぞれの心の状態を指す場合と実際の輪廻における様態を指す場合の二種あります。

この度のご質問は、実際の輪廻における様態についてとなりますが、娑婆世界は三千大千世界(イメージは三千個の宇宙がある感じ)という膨大な広さであり、この地球の生態においてのみだけではなく、別宇宙の全く私たちの宇宙にはない物質によっての生態、形態もありえますし、あるいは次元さえ異なっていることもありえます。

餓鬼や畜生の存在もこの地球上で生まれることもあれば、全く別の宇宙や次元で存在することもあります。もちろん、別の三千大千世界、浄土世界等に生まれることもあります。一番良いのは如来在世の浄土へと生まれ、更に仏道修行に励むことのできる境涯であるのが望ましくなります。

この娑婆世界における地球上にて人や畜生の生態に生まれ変わったならば、前世の生態、様態とは異なってはいても、会えることももちろんありえます。

亡くなった衆生は、それぞれの業縁に従っての生まれ先になりますが、如来在世の浄土へとなれば、特に生前、過去世における仏縁、心に培われた善き功徳や智慧、業の清らかさのありよう次第にもなって参ります。

お盆には、ご先祖様方は、この娑婆の縁のあったところに帰ってくるとして、丁重にお迎えし、お膳のお供え、提灯のお供え、また供養等をして、そして、お送りするということを風習的に行いますが、あくまでもこちらに残されてある側における「そうあってほしい」という希望的なところが大であり、実際に帰って来られるかどうかと申しましたら、その確率はかなり低いであろうかと存じます。全くありえないということではありませんが・・

いずれにしても、お盆という期間は、お休み、帰省等にて、亡くなられた方のことを偲び、弔うということで、追善供養を行うに適した期間であるのではないだろうかと存じます。

合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

発菩提心 隣人が悪人でも私は悪に染まらずに無上の心を目指す✨

畜生道、畜生界とは非人間的な行いをする人たちの心境・心理の事です。仮に死後の世界のことにするのであっても、それを思うのは生きている人。子供を親が殺してしまうような酷いことをするのはまさしくこの世で人の心にとりつく餓鬼・畜生の「如き」心。言葉が乱暴と思われるかもしれませんが古来の戦乱の世から生まれた本音の言葉。いつの時代も人の心が乱れれば家庭も乱れる、世も乱れる。特濃のエゴイズムのです。だからこそ毒親、DV親さんの元で育つとお子さんも生きている間に縁によっては暗い心に向かう作用や働き、影響力が生じてしまう。(悲)
人の心をそのような迷い苦しみや迷惑行為に向かわせる心理を餓鬼畜生、地獄界と当時の人が名づけたのです。
盆に親や先祖がそんな形で帰ってくるというのも妄想。ああじゃないか、こうなんじゃないだろうか?対立の心や疑心暗鬼の心を今度は修羅界と申します。阿修羅像のように何をするにも手がつかず心も三面、四面…、ネットの画面開きすぎてフリーズ状態のような。
そういうあらぬこと、非現実的な妄想や想念の世界の住人となれば「いないはずの敵」と渡り歩くことになるでしょう?それを修羅、阿修羅という。
キライな相手のことを想像してみてください。そこにいるわけでもないのにあなたの心に魔が生ずる。そういう魔のとりつき、対立心を修羅界という。
(´-`*)ワンちゃん猫ちゃんだって別に可愛いじゃないか…。畜生ニャなものか…。カワイイわん。そう思えば天上界。😼🐶💑
ところが、
(# ゚Д゚)うちの子は犬にかまれて一生消えない傷がついた!
猫がうちで飼ってたインコを食っちまった!どうしてくれるんだい!という人があればその人にとってはワンちゃん猫ちゃんも敵となる。コロナで某国で大量に犬猫ハムスターが殺された。地獄界。
( ゚Д゚)何が正しい?どうするべきだった?勝ち負け、優劣、損得、苦楽、そういう価値の対立、相対世界を人間界というのですよ。( ˘ω˘ )相対・相反する価値の世界。二見ともいう。
だからこそ、迷い苦しみに向かわせるような自己流の考え輪廻に縛られず、人を悪道に向かわせない方便としての救いや導きの役目があるのだからうがったものの見方もせずに一切を善導しよう志せば、まさに今あなたの菩薩道、仏道が開かれるの
です。お父様とあなた自身の善導救済のためにこそ、菩提心を強くおこされますように。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

お盆と輪廻はもともと別の観念

お盆は、世界中の宗教にある素朴なこの世とあの世の観念です。生者の世界と死者の世界。行ったり来たり。そこで想定されているのは、この世と似たような人間のような生命がいる世界。畜生は想定されていないでしょう。
 六道輪廻は仏教が世界で唯一説いた生命の生と死の仕組みで、信じるかどうかは各自の好みですが、どの生命にとっても生まれたところがこの世で、死ぬや否や、その世とはおさらばになります。
 ところが、どの宗教でも世間でも漠然とイメージしているあの世は、仏教で言う餓鬼道と天界に似ています。天界に生まれ変わると移動の自由度が高く、前世を覚えていて、時々、私たちの前に現れるかもしれません。餓鬼道は、苦しくて移動の自由度は低く、時々、私たちの目に見えてしまうかもしれません。
 地獄は低すぎて人界と接点がありません。人間道と畜生道は、前世を覚えていず、生まれ変わってもお互いに前世の縁が分かりにくいでしょう。
 仏教の餓鬼道に生まれ変わった縁者を功徳廻向で救う話がたまたまお盆の供養(これも元は仏教儀式です)とセットになり、今はこんがらがっています。
 詳しくは、藤本晃『功徳はなぜ廻向できるの?』国書刊行会、アルボムッレ・スマナサーラ『死後はどうなるの?』角川文庫をお読みください。

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おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本仏教、浄土真宗ということで活動しております。 先祖供養とか功徳回向とか、みんなお釈迦様が最初からおっしゃっていたって、ご存知でしたか。私たちも謙虚に堂々と日本仏教しましょう。

質問者からのお礼

ご説明ありがとうございます。輪廻の様相ではなく、心の状態と捉えてみます。非科学的な解釈は、想像力不足の私には無理のようです。

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