前を向きたい、乗り越えたい。価値を教えて
私は約15年もの間、希死念慮を抱えながら生きてきました。自分の中に死にたい・痛いと主張する幼い自分と日常生活を担当する年相応の自分の2つの人格が存在する感覚です。
数年前までは常に死にたいと思いながら生きてきましたが、ここ数年はいつもいつも強く死にたいと思っている訳ではなく、普段は死にたさの程度の波はあれど年相応の自分の方が強く、問題なく日常のタスクをこなせます。
問題となるのは大きい困難に直面したときです。僕にとっての困難とは、それを達成するために誰かに評価される必要があることです。自分の価値を主張する必要があるもので、評価基準が個人によるものであり、テストのような機械的に結果が決まるものではありません。
なのでこの質問も正直緊張しながら記入しています。
その困難のために頑張ろうとすると、動けなくなりなり次に震えだしさらに頑張ろうとすると泣き出してしまいます。最終的に過去の辛かったことや報われなかったことがフラッシュバックし、これまでの人生がくだらない辛かっただけのものに思えてきて、気力が抜けていき人生を諦めてしまいたくなります。自分の中の幼い自分がぎゃんぎゃんと泣いて止まらないのです。それでも今まで頑張って乗り越えてきたのですが、そうなる度に自殺の準備が進み、このままいくと遠くない将来衝動的に吊るんだろうと思います。
どうか、生きる意味や死にたくなった時の乗り越えかたを教えて下さい。
フラッシュバックする記憶として致命的だったものは大学の部活動のレギュラー争いでした。自分なりに努力して準備を重ねて、実力が上位の人にも勝てるようになったが、メンバーに選ばれたのは明らかに実力が足りない部内でのカースト上位な人達で、私は選ばれませんでした。理由は部を運営する学年なのに出場しないのは可哀想とのことでした。勝つために必要な人だけを選ぶという言葉を信じたのが馬鹿みたいでした、私も同じ学年で同じ立場だったのです。
大学に入学した頃は極度のあがり症で人前に出ることができず、そこから少しずつ少しずつ克服しやっと主体的な行動ができるようになってからこの出来事が起きたので心に堪えました…。
主体的な行動が以前よりできるようになり、人生は確実に良い方に向かっていると分かるのですが、人に評価されることが恐くて、困難に立ち向かえず自殺に逃げてしまいます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
乗り越えないと次にいけないという思いの戦いを捨てること
人の評価を自身に照らし合わすことで自己評価を決めつけていることがフラッシュバックの要因であるとも感じます。
それは、桜餅さんだけではなく人は誰もが多少なりとも持ち合わしている経験からの虚無感です。
仏の教えは、単純です。
諸々は無我であり、自我という自分は自分ではなく、自分に囚われているだけであるからです。
他人と評価することで、優劣感を覚えます。そこに自己の在り方である基準・標準・普通という観念が置かれます。
「こうであることが当たり前だ。」
「こうでいなければ負けてしまう。」
「こうしなければ、またトラウマが生じる。」
誰とも戦っているのではなく、結局は自己と戦っているのが人です。
他人の評価を気にするなと言われながらも簡単に癖づいた習慣は何事もすぐには手放せないものです。
しかし、楽になるには少しずつ手放していくことです。何を手放していけばよいのか?
放下著(ほうげじゃく)という、不要なものを手放していくことです。
・かたよらない、こだわらない、とらわれないことを習慣化していくことで自然の執着(フラッシュバック)が減少していきます。
しかし、容易に執着を手放すことはできないのも事実です。桜餅さんの生きる中に多くのヒントがこれからあると思います。
釈迦は「過去は追うな、未来を待つな、今を生きなさい」と説きます。
今というこの刹那(瞬間)だけを念頭に生きることです。
また、空海は「邪見を発起するな、善の根を断じてしまうのですよ。」と説いてくれます。
釈迦・空海ととに真理の言葉です。
過去は誰も多少なりとも苦い思いには、吸い込まれるように引き付けられてしまうものです。それも執着です。しかし、それは生きる上でとても邪魔なもので、過去は過ぎ去り、過去は捨てられたのであり、過去は、もうないのです。
釈迦は「汝よ、水を汲み出したならば、舟は軽やかに進むであろう。」
と説いてくれます。
困難の壁が生じたとき、またこの壁(過去)を乗り越える不安が襲来するという癖を無くしていくには「自分のためを」を手放していくことが大切です。
利他という他の為に自身を働かせていくことが、執着を手放す唯一の処方箋です。
文字数限り在りますが、利他の行為こそ苦から勝てる最高の方法なのです。
最後に、仏教には「①頑張る」はありません。「②努力という精進」はあります。①と②は別物です。
お気持ちお察しします
拝読させて頂きました。
あなたが今も死にたいと思うほどに辛い気持ちを抱えていることを読ませて頂きました。以前からあなたにとってはとても嫌なこと・辛いこと・おかしいと思うこと・受け入れられないことが幾つも積み重なってあなたを苦しめていらしたのかと思います。あなたの中で必死にそのことを抱えて耐えていらしたのかもしれませんよね。あなたの詳細なお気持ちはわからないですけれど、あなたのその死にたいと思う程のお気持ちを心よりお察しします。
あなたは日々死んでしまいたいという気持ちを抱えながらいきていらっしゃるのですね。あなたがその様に思われるのももっともかと思います。死んでしまいたいと思ってしまうことは誰でもが抱えています、大なり小なり心の中で浮き沈みしていることなのかとも思います。
本当に嫌になってしまうことや納得できないことや受け入れられないことや理不尽なことがあれば心の中では大嵐にさらされた様に感情があふれて荒波が襲ってきます、自分のことも分からなくなってしまいますしどうにでもなれ!と自暴自棄にもなってしまいますし、何もかも嫌になって投げ捨てたくもなりますし、いっそのこと何もかも無くなってしまえ!tおも思えてくるでしょう。
また過去の本当に嫌な思い出が沸き起こってきて本当に辛くなってしまうことでしょう。
宜しければどうかあなたのその思いをここでゆっくりとお話なさって下さい。あなたの中だけで抱えずにどうか一つ一つ言葉にして可能な範囲でおっしゃって下さい。死んでしまいたいと思ってしまうそのお気持ちをじっくりとお聞かせ下さい。
あなたは決して独りではありません。あなたの中で抱えていることもどうかここで吐き出してしまいましょう。今すぐに何でも解消するということでもありませんでしょうが、あなたの中から出してしまいあなたの心の中にたまっているものを出してしまいましょう、そしてあなたの心を少しでも軽くしていきましょう、楽をしていきましょう。軽くして楽することは決して悪いことではありません。あなたの心を楽にして少しずつ穏やかにしていきましょう。ふと死にたいと思ってもいいんです。その様な自分があってもいいのです。
その様なあなたのことを仏様やご先祖様は優しく見守っていて下さいますし、あなたを優しく受けとめて下さいますからね。
あなたの心が少しずつ軽くなっていきます様心より祈ってます。
質問者からのお礼
法源さん、回答ありがとうございます。
結局は自己と戦っている。その通りだと思います、過去に蔑ろにされたり馬鹿にされり、こいつには何を言っても良いと扱われた経験から、こうしなければならない、そうしないとまた嗤われる、という考えに執着しているのだと思います。
放下著。すぐには難しいですが、いつものように少しずつ少しずつ過去の執着・自分のためを手放していけたらなと思います。
頂いた沢山の教え、まだ全て消化できてないですが、少しずつ咀嚼して自分のものにしていきたいと思います。
Kousyou Kuuyo Azumaさん、回答ありがとうございます。
否定せずに寄り添ってくれてありがとうございます。
お叱りの言葉や厳しい言葉を言われるのではないかと不安だったので、私の言葉を優しくそのままの形で受け止めて認めてくれて救われました。
私は自分の素直な気持ちを吐き出すのが苦手で時間もかかってしまい、過去の執着を思い出す度に辛くなってしまいますが、ここで少しずつ吐き出して、手放して、自暴自棄にならないように心を軽くしていけたらなと思います。
ありがとうございました。