hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

地元に対して消えない罪悪感

回答数回答 1
有り難し有り難し 8

お世話になっております。
最近どうも心に引っかかっていることがあり相談させていただきました。
ひとことで言うと、「自分を犠牲にした友人達を思うと、私だけ自分のやりたいように生きていいのか」という罪悪感があるという悩みです。

私は地方出身で、漠然と「いつか上京するんだろうな」と思いながら育ちました。なんとなく生まれ育った町の中で生きていくのが窮屈で仕方なかったんです。残念なことにあまり好きになれなかったのかもしれません。
結果として、大学を卒業して就職したあたりで関東に住むことになり、現在は都内で自分の望んでいた環境で幸せです。
一方、地元の友人達は大学で県外に出ても戻ってきた人がちらほらいました。中にはずっと地元に住んでいる人もいました。
しばらくは「なんだかんだみんな地元が好きなんだなぁ。」と思いながら友人達と関わっていました。
しかし、そのうち彼らから、「私も結局(地元から)逃げられなかったな」や、「地元がこんな状況(寂れている)なのに東京に行ったやつ許せない」「あなたが地元に帰ってこないなんておかしい」「地元を離れるなんて親が泣くよ」など言われたり意見を目にしたりするようになりました。
地元を離れ、関東で嫁に行ったことに対し、なんとなく嫌味のような事も言われひどく傷ついたこともありました。
そして、地元の友人達の中には、自分を犠牲にしたり何かを諦めて、地元に戻ってきた人も意外といることに気づきました。だからこそ傍から見ると自由に生きている私にあたりがきつくなってきたのかと思い至りました。
結局、自分の幸せを考え、地元の友人とは全員縁を切りました。

私は今幸せです。愛する主人がいて、好きな環境で今までで一番幸せな時を過ごしています。
だからこそでしょうか、地元の友人達に対して罪悪感を感じてしまうことがあるのです。
彼らが幸せかどうかなんて私が知ることではないし、知る由もない。どんな人生を歩んでもそれは彼ら自身の選択です。私には関係ないしその責任はありません。それでも「私こんな幸せでいいのか」と不安になったり罪悪感が拭えません。
地元で関わっていた人に、あまり幸せそうに見えない人が多かったことを思い出してしまいます。彼らの幸福を推し量り勝手に憂うなんて図々しいとも思うのですが。

どうすれば楽になれるのでしょうか。教えて下さい。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

救いの手・アクションがそこにあれば他方にも飛ばせる💖🚀

「かたつむり いずれも おなじ 我が家かな」
師匠から教わった句ですが、人間というのはアメリカ行こうがアラスカ意向が宇宙に行こうが自分の心臓のあるアドレスは@いま・ここ・おのれ。
どこに行ってもあなたはあなた@そこ、それ、そのこと。
富士山も海底も世界中みんなつながっているのですよ。
ですから、地元だ都会だ地方だ田舎だ埼玉ダなんて言ったら地球に失礼です。
寿司・天ぷらは世界のどこに行こうが寿司・天ぷらです。
チャーハンはどこに行こうがチャーハンです。
キムチはどこに行ってもキムチです。
仏の救いの手もアクションもどこの国に行っても救いの活動となる。
人間はみな国境なきおたすけ団なのです。
縁があろうがなかろうが、縁が濃かろうが薄かろうが、会ってなければその人とは縁が今その時だけ切れているというだけ。
この世に無縁サマなど本当は存在しない。
だって世界は大きな水なき水槽だもの。🐡🐋
だからあなたが今どこにいてもこの見知らぬオッサンから謎の救いのメッセージもやってくる。
ふるさと税を送ろうが送らなかろうが、故郷のおたすけになることをすればそれは故郷へのおたすけになる。
ある有名新聞社の立ち上げ人のお一人は岩手のご出身でした。
心にあるのはいつもふるさと一ノ関。
都心で活躍して財をなした後に、ふるさとに桜の木をたくさん寄付したそうです。
人が幸せになる活動というものはお金ではなく「誰かのお役に立てること」ではないでしょうか。それをすることでだれかが救われる。
可能であれば地元にそういう活動を送る。支援する。
世界は今日も誰かが助けや支援を必要としています。
仏教の菩提心とは自分もすくい他人も救い宇宙も救い、石ころも救うことであり、他人に花を持たせてあげることであり、他人を自分より偉い人にすることだそうです。
石ころをどうやって救うのか。
先日お墓に石が転がっていましたので、ここにあったらこの家のお墓の人がお参りに来たら邪魔になるじゃろと思ってあっちにおいき、と。
ああ、こういうことじゃなぁ、と。両手がふさがっていたので足でどけて救ってあげました。足も仕事が増えて救われました。🐾
宇宙をどうやってすくうのか。
その心があるだけで誰かの何かの助けになろうという菩提心が増すのです。
その力で旦那を幸せにしてウハウハにして祖国・故郷に助けの活動でも注いであげてください。🌷

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

直接助けになることだけが全てではないのだなと感じ、少し楽になりました。
どこにいても私は変わらないのですね。私は私。
私も宇宙を幸せにするため、力になるためという視点を持って生きてみようかと思います。普段、勝手に色々な物や人にレッテルを貼っていたようです。
この度はありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ