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自分に満足できる生き方がしたい

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有り難し有り難し 7

30代の女です。
夫、娘と暮らしています。

家族がいて、信頼できる友達もいる、環境の良い職場で働くことが出来、大切な趣味もあり、正直自分はかなり恵まれていると感じます。

しかし、どうしても自分に自身が持てず、承認欲求が強く、嫉妬してしまいます。

ここ半年ほど悩んでいたのは、ママ友関係です。
その悩みをキッカケに、もう本当にこういう自分から離脱したい、変わりたい、と思うようになりました。

そのママ友たちとは、子供同士が仲良くプライベートで会うことも多かったのですが、私以外の二人が、趣味嗜好、生活スタイルが似ていて、しょっちゅう二人で旅行や飲み会をしていて。
結果的に子供同士もより一層仲良くなって、元々三人組だった娘が、少し仲間はずれにようになりました。

もちろん、子供同士はそれでもなんとなく仲良くしていて、でもやっぱり時々仲間に入れてもらえないことで娘は落ち込んでいました。

そのことがきっかけで、親にもなって子供のことよりも自分たちの気持ちや娯楽を優先するそのママ友に、憎悪のような感覚が芽生え、そこから自分をどんどん嫌いになりました。

正直、そのママたちは、自分の子供が娘を仲間はずれにしていることも知りません。
悩んでいるのが馬鹿らしくなるほど、子連れで遊び放題です。

そんな人のことを気にするだけ無駄だし、娘も今は別のお友達ができて何も問題はないのに、未だに許せない自分が苦しいです。

そんな時に、「自分に満足できないから相手の幸せに耐えられない」という言葉を知り、私が今すべきなのは、ママ友のことをどうにか考えるより、自分が幸せだと実感するべきでは、と思うようになりました。

しかし、それが非常に難しく、やはり未だにモヤモヤしては苦しいです。

客観的に見ると、私はすごく幸せな人間です。
その事実をどう自分の中に落とし込めばいいのか、どういう心構えが必要か、是非アドバイスいただけるとありがたいです。

長文になりましたが、よろしくおねがいします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

実際の今の事実に出会うことこそが満足につながります

自分があらかじめこうだろう…、こうだったらいいなぁ、こうあればいいのに、きっとこうに違いないという先立つ思いはいつも100%妄想。1000%妄想だと知る。【「事実」と「思想・想念・妄想」とは完全に別】だ悟りましょう。
大体が想像で勝手に先走っていたずらに心を疲弊させてしまう空振り。何のために出てくるのか意味不明なまでに。
自分が今先に考えている「こうだろう」「こうしなきゃ…」というものは実際とは全く違うはずです。
【さっきまでの私の思いと今の実際の事実とではまるで異なる姿をしている】
子供が仲間外れにされたことも子供の話以上に親目線で余計なことを考えてしまう。もちろん、仲間外れは可哀そう。でも女子同士でグループ内でお互いに定期的にモグラたたきゲームのように叩かれる人も入れ替わります。マウントをとってくるような女子たちは関わらん方がいいのでマウントをとってくるその人間心理の方を説明して上手に安全地帯を獲得する具体的な方法を教えてあげる方が役立ちます。
そうして人間はいつも現実ではないことをあれこれ思い、それ以上のことを想像で膨らませる。モチも風船も膨らんで大きく見えるようでも膨らんでいる中身は空気です。実際はオモテに見えるような形をしていない。あると思ってもつかむものはない。膨らんで大きく見えても中身は存在しない。大きく見えても実際を見ないのが人の姿です。全面的にしゃしゃり出てくるものは真実姿をしているようでも表面だけ。メディアでも日々声の大きな人たちの声が真実であるかのように思いこまされてしまっているのが我々です。
【実際の現実以外は私の勝手な思いの膨らみだとを知る】
こんなことが起こるんじゃなかろうか、こうに違いない…。
そんなことを考えなくても実際の現場はその時になったら思っていたこととまるで違うことが起こる。あなたが満足すべきは「自分に満足」ではなく今の、目の前のことに親しむ姿勢が大事。
真実は目で見た、聞いた、知った事の「情報」の側ではありません。
【たった今、そこで見えている事!聞こえている今の音!体感しているたった今の感覚のある事だけ!です。さらにはそこで自分の主観でああだろうこうだろうという「声の大きな」思いの騒ぎを鎮めた上で実感だけが実物なのです。】
そんな事はないと思うかもしれませんが、それは膨らんだモチや風船のようなものだと、今そこで確認する。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

遅くなりましたがありがとうございます。

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