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劣等感と正解、不正解

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有り難し有り難し 15

文章がうまく書けず読みづらいと思います、申し訳御座いません。

私は今年20代後半になります。
ですが精神病を患っており、外に出られずほぼ6年間誰とも接しない生活を送っていました。
そのため精神がかなり幼く未熟であり、余計外に出ることが恐ろしくなってしまいました。

生活必需品のため、外出するときも自分の髪型や服装や言葉遣いや清潔感が出ているかどうかなど、周りに見られているのではと思うと恐ろしくて薬を何度も飲まないと外出できません。

人生に正解、不正解はないと何度も頭で理解はしながらも全ての選択肢で正解を選びたいと思ってしまい、「友人や世の中の人はこんな時どうするのだろう」とSNSを見ていろいろな意見や自分のような人間に対する厳しい意見に悩む日々です。(精神病は甘え、死にたいならとっとと死ね など)

もうどうしたらいいのでしょうか。
あまりよくわかりません。
死にたいと思い何度も試しますが怖くて本当に死ねないのです。

ただ毎日を消費してただ死んだように生きていることが幸せなのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「事実は人を傷つけない」ことを確認すれば救われる

参禅仲間の当たり前田の右ストレート君(仮名)は若くしてこの世を去りました。
ドコモのクレーム処理係で多くの人たちの文句や愚痴を救いへと転じ、さらに仏道に出会い、その中でも本当に素晴らしい教えを説く老師に出会い、共に学びました。
出家もされて老師の元で随身して教えを乞う日々。うらやましい限りでした。
生きていれば私よりも多くの人を導ける立派なお坊さんになっておられたでしょう。
ですが、死んでしまわれた。私は私のやれることをやるのです。
葬儀の際に彼の言葉をききました。
「事実は人を傷つけない」
どういうことか。
人は事実を見ない。
自分の頭の中で考えていることを優先してそっちを信じているところがあるとおもいませんか。
あなたが6年間おこもり、お困りになられつつも、安楽なところに生活されてきました。ちゃんといいところを知っているのです。それはまるで今日の暖かな日の中で猫ちゃんが快適な場所で寝転んでいるように。うちで飼っているニワトリに卵をすぶせるようにはっぱを敷き詰めました。だめなんですわ。そこで静岡に行ったときにたまたまわらが安かったので買って与えました。これはいいと誰から教わったわけでもないのにニワトリはワラを二本しかない足でうまくくるくると丸めてその上に卵をウナウナと産んではあたためているのでおじゃる。🐔🥚
生命は本当に自分が快適なことをちゃんと最初から知っているのどすえ。
よって、あなたもこの一見すると謎な言葉「事実は人を傷つけない」という当たり前田の右ストレートを救いの導きとして授かってはもらえないでしょうか。
多分、あなたはそのあったこともない彼のお示しですくわれる。
事実というものはあなたの脳内おしゃべりよりも早いんです。
あなたは思ったことを先に選んでいるけれど本当は、実際の事実というものはあなたを傷つけることなく「ただ」その通りなだけ。
そこで毎回あなたは心に負の思いを生じさせる。「ああ、いやだ。また嫌な思いをするかもしれない。」と。そういう思いこそが毒汁なのヨ。事実は別にあなたを傷つけない。どんなヤクザが恐ろしい形相でにらんできても、まだ死んでない。山の中で暗闇でオバケに襲われたと思っても、…いない。事実は最初っからしゃべっていない。いつも私たちの心を害するのは自己流の思いなのです。
わからんことがあったお電話ください。左ストレートもあります。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

有難う御座います。
とても学びがありました。
今冷静になって読んでみると、とても恥ずかしい文を人様に晒していたなと思い反省しています。
もう少し勉強したいと思えました。

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