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何故人は何でも一緒くたにするのか

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疑問なのですが何故人は何でも一緒くたにしてしまうのでしょうか?
何らかの集団で一部の人間が問題行動を起こすとその集団全体が悪く見られてしまうってことがありますよね。
勿論人間全員がそのような考えを持っているとは思いませんが割とこの様に考えてしまう人がいる気がします。
何故そう思ってしまうのでしょうか?心理的な問題なんでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私も気をつけたいです

こんにちは。

 なんででしょうねぇ。また周囲の一部の人と一緒くたにされ評価されるのはイヤなものですね。

 質問中「全員がそのような考えを持っているとは思いませんが」と言ってはいますが、あなた自身も「人」は「何でも一緒くたにする」という、人を一緒くたにした考え方になっているという矛盾というのか二層構造というのか複雑な質問になってしまっていますね。
 
 「なぜ人は」「なぜ若者は」「なぜ自転車を運転する人は」などとひとまとめにすると楽なのでしょうね。そこで思考停止して批判できますからね。例外を考えるときりがなく面倒なのでしょう。
 一方で一緒くたにするような考え方は差別につながるので気をつけた方がいいですね。私も気をつけたいです。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

そういう心の動きがあるだけです

全員がそれぞれ、ひとまとめに見ているわけでもないでしょう。
あなたもおそらくその人たちがさぞかしみんなきっと同じだと思ってみているに違いないと思っているその心理も「一緒くた心理」なのかもしれない。
われわれboseも僧侶もモンクもプリーストも仏教者も誰一人として同じではありません。他の人の答えもあるかもしれませんので、おまちください。
私どもとて、人間の本質は個人個人。肩書きではありません。
だからあなたも世間の人がどう思おうが、世間ではみんなが一緒くたにするという事があろうがなかろうが、あなたはあなた。
独立・分離・自立・出離・出家の精神であなたもその考えに縛られなければいいのです。人が特定の組織をまとめて同じにみる心理=脳内で情報化された世界と、あなた個人の個人的な活動は組織とは別物ですから。
私だって、このhasunohaの中の一員ですが、群れません、縛られません、それぞれの個性を尊重し、私も他のお坊様もみんな別存在。誰もがそうです。世界中の誰もがみんな。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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