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失恋…

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元カレと私は、セフレ関係でした。
私は群馬在住で、彼は東京在住でした。えっちすることもあれば、普通にご飯食べたりデートしたり、付き合ってるのと何が違うのかわからないくらいでした。
私は彼のことを好きになってしまったので、告白をしました。彼も同じ気持ちだと思ってました。
でも、ちがいました。
彼から言われた言葉は「付き合う気はない。」「遠距離だから、むり。」「沈黙が耐えられないのもフィーリングが合わない」「俺はもう33歳で次付き合う人とは結婚だから、付き合えない」と言われました。要するに、私は彼の結婚相手には相応しくないということでした。
私は納得しました。この人と付き合うことはもうできないんだなぁと確信しました。
それで、この関係を終わりにしようと切り出しました。
「もう会わない。ラインの連絡先も、全部消そう」と提案しました。
彼も応じて、連絡先を消しました。
それで、別れ際に私から「最後だから、手を繋ごう」と言いました。
そしたら彼が「やっぱり、付き合おう。」と言ってきました。
腹が立ちました。あれだけ付き合えないって言っときながら。今更、話変えてきて。

「私はもう無理だよ」と言って、最後に笑顔で手を振って別れました。
ただ、そのあともう一生その人と会うことができないと考えると涙が出てきてつらくてつらくて仕方ないのです。
あの時、別れを切り出した自分に後悔はありません。
ただ、あの人のことが好きだったんだなぁと思う日々です。
切り替えようと思って、色んなマッチングアプリに登録して色んな人と話すようにはしています。
でも、好きな人は出来ないし。
寂しくて寂しくて、仕方がありません。
ぽっかりと胸に穴が空いて、呼吸が苦しくて苦しくて仕方ないのです。
私には、恋人が、結婚相手が見つかるのでしょうか。
彼から離れた方がいいのは、私の直感で、わかるのです。
ただ、新しい人が見つからないのです。
その間、この寂しさと苦しさはどうしたらいいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

思い悩む必要がそもそもないのでは

こんにちは。

私なりの言葉で事情を整理すると、こういうことでしょう。
そもそも「セフレ関係」という、心と体を別々のものとして取り扱うことが可能だと始めた「関係」であった。しかし、段々と「新しい人が見つからない」ほどに心が別物ではなくなっていた、ということだと思います。

他者のプライベートな事なので、第三者が言えることは多くはないと思いますが、「この寂しさと苦しさはどうしたらいいの」かと問われているので一先ず回答します。

「彼から離れた方がいいのは、私の直感で、わかる」と書いています。まだ、「直感」ということなので、上手く言葉にできない、整理できていないのでしょう。

あなたが今回学んだ教訓とは何でしょうか。
それは、心と体を別々のものとして取り扱うことが不可能だ、ということではないでしょうか。そもそも「恋人」も、「結婚相手」も心と体を一体にすることを前提として交際するものです。

彼は「付き合う気はない」といったそうですね。
つまり、今回少なくとも彼にとってあなたは「恋人」でもなく、ましてや「結婚相手」でもなかったということです。あなたは「私には、恋人が、結婚相手が見つかるのでしょうか」と心配をしていますが、そもそも今回は恋活でもなければ、婚活でもなかったのではありませんか。あなたが、心のなかで否定をしながらでも、いつの間にか彼を「恋人」なり「結婚相手」になるのではと思っていたからこそ、その延長線上で今後の心配をするのでしょう。

私は、そもそも「セフレ関係」という関係自体が、不健全だと思います。それは世間的にそう言われているからではなく、愛情や信頼を築く上で不適当だからです。心と体は別物と考えられる=浮気、不倫へのハードルが低いからです。彼は、そもそも「恋人」として、「結婚相手」として不適当な人物だったのではありませんか。そして、それは同時にあなた自身のあり方、「関係」の持ち方自体を振り返る必要性も有るはずです。

こう考えていけば、今回の件は教訓になったと思いこそすれ、「新しい人が見つからない」、「この寂しさと苦しさはどうしたらいい」と思い悩む必要がそもそもないのでは、と思います。適切な自分になり、適切な相手を探す。そのスタートラインにあなたは立ったばかりなのだから。

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有り難し
おきもち

浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布教研究専従職員 元龍谷大学講師 元篤志面接委員(法務省管轄) 真宗学修士、心理学学士 Fmみっきい(地元ラジオ局)出演中 趣味:サックス 2019年末頃から回答しています
応談できる時間帯は、その日によって違いますのでお確かめ下さい。 月曜日〜金曜日(祝日除く)13時〜21時 土曜、日曜、祝日 18時〜21時 お盆(8月1日〜15日)、お彼岸は対応できません。

人に対して人の尊厳を認めない人間とは関わらない

セフレ関係とは「相手を尊重していないカンケイ」「相手の尊厳を認めていない」でしょう。
最初から人として道外れですから、相手に対して入れ込まないことです。
やっぱり付き合おうとか言う言葉だって信じちゃダメです。
お互いに便利に利用していた関係なのですから一番やってはいけないことはあなたがあなたの心や脳を寂しさにごまかされて騙してしまうこと。あなたの「女性の性」をディスカウントしてしまう事。簡単に言えばそんな相手を好きになること自体が女性としてよろしくないよ、ということ。最初から裏切りのような関係なのにそんな人を信じてはダメでしょう。
それ以上はご自身でもわかっておられるようなので申し上げません。(´-`*)
禅宗仏教の戒めには第三に不邪淫戒という男女の尊厳を損ねるような行為をしてはならないというものがあり、第五に不胡酒戒というモノや薬や自己の誤った考えに依存するなという戒めがあります。それをすると今後の人生が狂うからでしょうし、あなたの為にも良くないからなのです。
恋愛とは家庭的であるべきです。
最初からお互い浮気のような遊び関係であることは刺激や快楽的な喜びであってもそういうものだからこそ楽しいのであって家庭に入ったらお互いそういうことをまたするようになるので、快楽を求める恋の方向性そのものを捨てるべきでしょう。人の集まる「場」というものはおおよその「程度」というものがあります。出会い系、マッチングアプリに群がる人も「アソ火」や「快楽」目当ての人が多いはずです。そういう程度の人と今後の人生、家庭的になれるかどうか?
最初の一歩目を誤ってしまうととアソ火の飛び火でますます身を焼くことになりましょう。いずれ結婚をするのでしょうから、人生は人間性を高めていくことが大切です。遊びを楽しむ程度の人間性の人たちが集まり、群がる場所にはそういうある種、病みを抱えた人しか集まりません。誠実さをあなたは求めているのではないでしょうか?だとしたら、そういう場から離れてもっと誠実な出会いを求めるべく心の進む先を軌道修正されてはいかがでしょうか。あなたの生命と人生と女性の尊厳を尊重して頂きたいとおもいます。また、同様な手法によって男性から軽視されている女性が負のループから脱して男の我欲の毒牙によって傷つかないことを祈り、ここに記します。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございました!

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