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死にたいくらい辛い。八方塞がり。

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有り難し有り難し 8

仕事を育児休業中です。
来月子供が1歳になるので職場に復帰しなくてはなりません。

子供が可愛い盛りでまだまだ手離したくない気持ち、怠けの気持ちもありつつ、
職場で嫌がらせを受けていたので生きたくない気持ちが大きいです。
その人は50代後半の女ですが、自分と合う人を仲間にしていき、合わないと排除するような人です。その人のいじめのターゲットにされました。
私は孤立した感じです。

仕事に行きたくない、でも辞めたら上の子の保育園も辞めないといけません。
子供は楽しく保育園に行っています…。
下の子を保育園にまだ入れたくありません。
まだ歩けないし甘えんぼで可愛いので…。

八方塞がりで今は先延ばし状態です、、

先程会社から電話がきました。
消えたい気持ちで居ます。
ロッカーの中に私物が入ったままだし、復帰すれば出産のお祝い金や有給がもらえたりもします。(これが迷う1番の原因)
メンタルとの折り合いがつきません。
イジメの証拠がないため失業保険もすぐにはもらえなさそうですし辞める手続きが…。

何かアドバイスお願いしますm(_ _)m


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

母の愛は最強 地蔵真言 オン カカカ ビサンマエイ ソワカ

それは不安。
実際の現実で本当にそうなってから対応すればいいのです。
ですがICレコーダーは買っておきましょう。
あなたの使命は社員・社畜になるのではなく地蔵・地蔵菩薩になること。なったつもりで職場に戻り、子育てもすればいいのです。あなたは地蔵。
地蔵とは天上界、人間界、修羅界、餓鬼・畜生・地獄界も救う精神。
敵も嫌いな相手も救う。悪党も救う。
そういう精神を大慈悲心という。
それが本当の宗教心というもの。
地蔵とは大慈悲心の象徴。
万物の根源の大菩提心「阿」字の内容・はたらき・作用。
地蔵とは人類、万人の心の中にある自分も救い相手も救う最強の慈愛の働きです。
その嫌な相手のおっ母さんになるつもりでつとめる。あなたの愛の力を最大限までに引き上げる。我が子は可愛いでしょう。その憎ったらしい相手もその人を愛する人がいる。それを慮り自他を超えた大きな慈愛に目覚める。
それを地蔵の精神という。どん底、底辺も救う。いじめっ子の心理は相手が80歳だろうが病んだ心理です。心の渇き。
どんなに強がってもその人は心が病んでいると見抜けばいい。
それを心のベースに置いて、もしいじめをしてくるなら「見抜いてますよ。あなたがかわいそうなひとだってことを。」というまなざしで見通す。かかってきやがれとICレコーダーで「このはげー」的な音源が録れるまで常に携帯しておきましょう。(5000円程度)人はウソがばれると悪さはできません。いじめを公の場で堂々と犯罪を犯す人はいません。いじめは犯罪ですから、みんなの前でさらせばよいのです。パワハラ、いじめ、いやがらせだということを。人間のやることです。たかが知れてます。それに屈しない事。
それが子供を守る姿勢です。そして、母になるという態度です。
母になるということのクオリティをさらに高めるのです。
我が子がかわいいのは当然。そのいじめっ子も愛されないままに育ってきたのでしょう。
愛を与えておとなしくなるのは人間の自然な働き。
いじめをしてマウントをとってやろうとするのも哀しくあさましい人間の心理です。マウントをとろうとするのはその人の心の弱さ。そしてあなたに服従や従順を求めている心理。必要な時だけ関わって後は育児を理由にスルーで良いのです。そもそも仕事をするということは家庭第一。家庭の為。つらい職場であればやめてしまいスキルを他者で役立てればいいのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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