とても酷い人間になってしまった
いつもお世話になっております。
失礼ながらお話が長くなるので早速本題に入らせて頂きます。
以前「自分がわからない」という質問を送らせて頂きましたが、解決致しました。しかし、わかったのは酷い自分がいたというだけです。
実は私、ネット上では人を数回裏切ったことがあります。共通する内容は、お世話になった方々から音信不通になることです。私は趣味で「師匠」や「先輩」に当たる方々が数人いましたが、自分が説教されたり、怒られたりした場合にその人から距離を取るようにしていたのです。一応、私は「反省するふり」は昔からかなり得意なことでして、その場では許されることは多かったです。しかし、そこから連絡を取らなくなることが多くありました。説教の内容は論理的ではない、個人的に相手方が気に食わないことを口調を激しくして怒られることも少なくはありませんでしたが、その中にも正論や思いやりを持った言葉がいくつかあったことは事実です。しかし、私には少しも響いていませんでした。理屈や文脈で自分のために説教して頂いていることは承知しています。しかし、私の心、いわば本心では「面倒くさい」「役に立たない」「うざい」「早々に蒸発したほうがいいな」という思いが走ります。
このようなことが実は最近またありました。しかも、その相手は私が趣味の界隈ではかなり有名な方で、私も中学生の頃から憧れの人でした。そのような人にさえ、上記したような考えが浮かんでしまったのです。
そしてわかったことは、自分はとても他人に冷たく、気が向けば躊躇なく他人との縁を切る人だということです。今まで同じようなことをやってはいましたが、今回の件がきっかけで自身の内面や行動を思い返すきっかけになりました。そこでお坊さんに質問です。
何故このような思考になってしまったのでしょうか。
たしかに、過去に人からいじめられ、何回が自身も裏切られた過去はあります。しかし、そこから学び他人には同じようなことをしようとは思わなかったはずなのです。
しかし何故か、気づかぬ内に昔の自分が嫌いだった人間なってしまいました。
何を間違えてしまったのでしょうか。
変わりたいという思いも湧いてきません。今の私は批判されても心に響くことはないと思います。しかし、理性が効いている今のうちにお坊さんから私に対する言葉を頂きたいです。
どんな内容でも構いません。
よろしくお願いします
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これが自己肯定感の低さかな
こんにちは。この言葉、聞いたことがあるでしょうか。「自分で自分を肯定する」なんておかしな表現だと思うのですが、まぁ「自分には生きている価値がないんだ」という自己否定から捻り出された(反対語あるいは対語として)言葉なんだろうと思います。
さて、これよく「僕にはこんな良いところがある。だから僕は価値ある人間なんだ」という文脈で語られます。しかし、私見ではこれ、全くの勘違いだと思います。
「ダメなところもある。けれどそこも引っくるめて自分なんだ」という、自分の至らなさを認められることを、(敢えて言えば)自己肯定というのではないでしょうかね。上にあげた「自己肯定感とは何か、についての誤解」は、結局「自分には誇れるものがない」と自己否定に繋がる、あるいは人間を二分していく結果になりませんかね。
あなたの今の状態=自分への批判や否定を拒否する、というのは、この(私の解釈する)意味で「自己肯定」を拒否しているのだと思います。
そして、その状態についての考察を述べます。まず人間全体的に、この傾向があると感じます。みんな批判とか否定されることに弱くなっている。その原因の一つは情報化社会だと考えています。望まない結果を表示した機械に「反省しろ」と言っても変わりません。スマホの電源スイッチを入れて付かなかったとしたら「すいません」をいうのは本体ではないですし、「俺はこの記事に傷ついた」と言っても記事が反省することはありません。つまり我々は「自分から反省し変わっていく、ことはあり得ない」ものと長時間付き合っているのです。意図あって誇大気味に書かれた記事という情報が「すいません、あれは売りたい一心で誇大しました」と自ら反省することもありません。「あれは誇大だった」というのはあくまで別の情報としてもたらされるのであり、自身が変わることはないのです(操作されない限り)。
そんな「自ら変化し得ないもの」との付き合いが激増しているのが、「変わりたいとも思いません」と言いながら人に意見を求めるという状況に繋がっているような気がします。
質問者からのお礼
大変申し訳ございません。数ヶ月経ちましたが、問題は何も解決していない状況です。
むしろ、酷くなっていく一方です。
「野心」と呼べば良いのかもしれません。
他者を利用することに強い快感を覚え、それが上手くいってしまっています。
本来ならばお礼を書くべきですが、解決できていない状況でお礼を申し上げる方が無礼だと考えました。
大変申し訳ございません。