お坊さんから見たキリスト教について
相談というよりほぼ愚痴なんですが…
私は神仏との間にご縁を求めて神社やお寺でお参りしたりネットや本で世界の宗教を調べたりしています。
それで最近私は引っ越しがあり、たまたま近所にキリスト教の小さな教会があるのを見つけたので興味本位で飛び込んでみました。
で、特に教会の人たちに拒まれる事もなく私を受け入れて聖書講読が行われたのですが…正直嫌な気持ちになりました。
牧師さんの言葉にも新約聖書の中にも「神は人の作った宮にお住みになりません」といった言葉がありました。
ふ~ん…といった感じで聞いていたのですが牧師さんは更に噛み砕いて説明して下さりました。
その噛み砕いた言葉の中には「全知全能の神が神社の社に収まるなど人が小さな犬小屋に住むのと同じ事なのです!」
「お地蔵さんにはよだれ掛けや頭巾がありますが人がそのように面倒を見ないと何もできないのです!」
「更には巨石や大木に神が宿るなど私は呆れました!常々おかしいと感じていました!」
…などと、人差し指を立てながら声高に言っておられました
私は牧師さんのお話を聞いている内に「何?ふざけるなよ?」と怒りが込み上げたその後に頭が真っ白になり腹がズ~ンと重くなっていました。
キリスト教の教えの中には「偶像礼拝」という罰(?)があります
唯一神であるイエス・キリストを背き偶像(社や仏像)を拝むなどとんでもない、そのような罪人は永遠の火の池(地獄)に投げ込まれるんですって…
なんだろ、日本に生まれて神道や仏教が身近にありすぎる為か、私がそれらばかり勉強していたからか知りませんが私の今までの参拝やちょっとした勉強、ひいては日本人のあり方や宗教感を根本から否定された気分でした。
キリスト教では愛の精神を持つ事など優れた教えがあるようなんですが、ならば他の宗教を悉く否定するのって「そうじゃないでしょう?」と思うんですよね。
ちなみに牧師さんと2人だけでお話する機会があり、これからの集会にも誘って下さいました。
とても真面目であり良い人でしたよ、他の宗教を引き合いに出して否定するだけという点以外は。
イマイチ答えにくいとは思いますが仏教のお坊さんはキリスト教をどう思いますか?
私はキリスト教にも優れた教えがあると思いますが正直な所もうウンザリしたので「キリスト教は…もう勉強しなくていいか…」と思いました。
・家族が遠く離れている、友達もいない、師もいない、社会との繋がりもないヒト。 ・“悟り”よりも“ご縁”を求めて足りない頭で神道の神様や仏教の仏様の事をまったり独学で勉強中。 ・子供の頃の嫌な思い出を思い出したりして独りで勝手にイライラしたりする感情に支配されるヒト。 ・自分の欲望を抑えたりするのがとても苦手なヒト。 ・遠く離れている家族の幸せや神仏とのご縁を願ってよく神社やお寺をお参りしてるヒト。
あらゆる煩悩が形を成したのが自分だと思います。 煩悩をとり除いたら自分が自分で無くなる気がして怖いので「煩悩を受け入れつつなんとか出来ないか」と今は道を模索しています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
信仰とは何でしょうか?
ご質問拝読いたしました。
信仰とは何でしょうか?
信じるとは?
ある事が証明されているもの、
これは、法則であって信とは、
言わないと思っています。
電気と言う見えない力で、
いろいろなものが動きますが、
これは、科学的常識であって
信とはいいませんよね。
ある事が証明されていますから。
しかし、無いのか?有るのか?
わからないものを有ると
信じるのが信心だと思います。
道端の小さな小屋にまします、
お地蔵さまは地蔵菩薩さま
ですから、手を合わせます。
赤い鳥居のお稲荷様の前では、
一礼いたします。
それは他人がどう思うと関係ないのです。
このお粗末でつまらない愚拙が、
神仏がましますと信じていれば、
よいのです。
孫悟空は小さくケシ粒ほどにも、
なりますし、
山をつくような巨人にもなります。
しかし、気が付いた、
お釈迦さまの手の内だった。
まさに融通無碍なのが神仏です。
愚拙はイエスキリストの存在も、
全知全能、創造主たる主の存在も、
信じています。
ただ時空が違う、次元が違うだけ、
大いなる大宇宙と言う慈悲が、
この世界に存在する霊の救済のため、
いろいろな手段や方法を
示されているのだと思います。
ですから、祈りの場である
教会の前では必ず一礼して、
尊重いたします。
お答えになっているかどうかは、
分かりませんが、
愚拙は御縁のある方々との、
ご縁を感謝して行きたいと思います。
こんにちは。
様々な宗教・宗派について学ぶと様々な発見がありますね。
違いを指摘され、否定された気持ちになったそうですが、まあ違うのですから仕方がないですよね。あなた自身が否定された訳じゃないのですから。
少し前に、海外の(どこの宗教か失念しましたが)サッカー選手はゴールして神様に感謝のポーズを取るようなときに、真上(90度)の角度で上を向くという話を聞いたことがあります。神様が自分の真上にいるという信仰があるからだそうです。私たち日本人は天を仰ぐとき45度くらいの角度になると思います。多分太陽(おてんとうさま)を拝むからそのくらいの角度になるのだと想像します。このように「違い」を「興味」という方向に向けていくと、さらに学びが深まり、仏教をさらに理解するきっかけになると思いますよ。
お時間あったら、遠藤周作さんの「深い河」をご覧になってみてください。長編の小説ですが、信仰とは何かについて考えされられます。作中にキリスト教を信仰する日本人がキリスト教の神父になろうと思うのだけど、どうしても日本的な「神様」の考えから抜けることができないという場面がありました。そのくらい一度自分に染みついた考え方を変更するのは難しい事がわかります。
質問者からのお礼
光禪様 ご回答ありがとうございます
好奇心だけで先走った結果、一人で不機嫌になってましたね。
「違い」を「興味」に、良いですね!
私もそれを旨に馴染みの薄い世界の宗教も独学で勉強してた筈だったのですが…。
ちょっとしたフィールドワーク(?)的な事、人と接して教えを乞うにも頭に血が昇るほどに好奇心が暴発しないよう心に余裕は持って行くべきでした。
キリスト教については…一旦お休みしてオススメして頂いた遠藤周作さんの「深い河」を探しだして読んでみたいです!
ご回答ありがとうございました☘️
花山雲吉様 ご回答ありがとうございます
信心とは、ご縁とは…。
私がいつの間にか忘れかけていた信仰の形でした。
ただその場で、その人の言葉尻ばかりが気になり腹を立てたり心を揺さぶられるようでは駄目ですね。
キリスト教が切っ掛けに忘れてかけていた私の信仰の形とお二人のお坊さん光禪様、花山雲吉様とご縁を頂けたという面では切っ掛け作りをしてくれたキリスト教ともある意味で良いご縁を頂けました。
正直やはりキリスト教は…私には少々苦いご縁ではありましたが回り回って一つの勉強に、良いご縁になりました。
ご回答ありがとうございました☘️