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「お金」効率、コスパ主義を辞めたいです。

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「お金」のことで、生きづらさを感じています。

お金は安定して得ることはできているのに
貯金が減るのが怖いです。
何より、どんなときも
「効率よく仕えているか?」
「コスパがいいか?」
を考えてしまいます。

先日は、知り合いが誘ってくれた旅行へ行きましたが、「私だったら、もっと安い旅館を見つけられるのに…」「お酒を飲まないのに、なんで皆と同じ額を払うの?」と思ってしまい、何で来たんだろう…と後悔して、「そんなに高額ではない!」と頭では分かっているのに、なぜか心がザワザワして、心から旅行を楽しむことができませんでした。

通販サイトで何か物を買っても、後から数十円安く販売されているのを見ると、「なんで最初に、こっちを見つけられなかったんだ!」と激しく後悔してしまいます。

将来に対しての不安があるのか、
なんなのか自分でも分かりませんが…
お金に対しての執着を手放して、
もっと楽しくお金を使えるようになって、
ストレスなく生きられるようになりたいです。

どうしたら、いいのでしょうか?
よろしくお願いいたします。

2022年6月15日 13:33

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

欲求ではなく必要性で行動 人の感受作用に欲の伴いはない

あると便利だろう、と必要性ではなくプチ欲しいでつい要らんものまで買いこんでしまう百円ショップの近くに住んでいる新品スポンジ大好きの丹下と申します。
お金は使わなければ減りません。
一度、家にあるものだけで暮らしてみるとよいです。
おおよそ用が足りるということを学べます。
用が足りる。
事が足りる。
それで間に合う。
十分。
この足るを知る精神をふかめることで要らんことは要らんという心になります。
要らんことを欲しなくなるとやらなくなります。
上手に他人からの誘いも断れるようになります。
私も飲み会とかバカバカしいのであまり行きません。
家でもっと質の高いものを自分で作って3分の1以下のコストで事足りるからです。
私が会いたいお友達は自分で誘えばいいのです。
ムリして嫌いな人と過ごしてお金も倍とられてかえってその人が嫌いになるくらいならその飲み会や集まり行かないほうが得策です。
さて、足りるということを知る「知足」についてもうすこし学んでみましょう。
鎌倉時代の天才宗教家であり、天才実相監察家の道元禅師は、知足という言葉一つでも仏教界がひっくり返るほどの提言を致しました。
いつの時代でもホンマモンの真実の言葉は隠されてしまいます。
道元禅師は知足についてこう説いておられます。
「受取するに 限りを もって す 」と。
今までの通説ではいわゆる少欲・知足ということは欲を少なくせぇ、足ることを知りなさい、と教わってきましたが、本当はそうじゃァないのだよ、と。(仏教界激震)
※受取するものことに、限りをもってなされていることをわが身が既にその事足りていると知れ、と。
自分が足りていると知りなさい、ということではない。
たとえば、何か食べ物を口にするとき。
味覚はそれ以上のことを受け取りません。
美味しいとかまずいとかも言わない。
ただ、その受け取りだけ。それだけ限定。
これはあなたの今の知覚や感受作用に目を向けながらよく内容を理解してください。
人は何かに出会うとき、何かを見る、聞く、感じる時に、そこに自分の好き嫌いも欲望もない。名称も無い。意味や価値もないままに受け取っているのです。
そこに理知的な悟りの作用があるんだよと、道元という方は教えてくれているのです。※
※~※を百回読むつもりで繰り返し読んでみてください。
人生を変える大きな力が手に入ります。

2022年6月16日 8:52
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

モヤモヤ時間を時給換算、人生の宝探し

モヤモヤしている時間を時給換算してみてください。
その時間を別のことに使えたら、人生はより有意義になるはず。
お金って、自分の代わりに他人に仕事をしてもらうチケットですよね。
てことは、私たちはお金で時間を買っている。
だから、時間を有効利用できたら、お金を儲けたのと同じ価値がある。
人生の時間をどう楽しむか。
あと、悩んでいる時間を無くしてその分早く寝たら、それだけで光熱費が浮きます。
悩んでいる時間をインターネットで調べ物でもする時間に充てたら、本1冊買うのと同じ価値の知識が増えるかもしれない。
お金だけじゃなく、時間と物質とエネルギーと情報(知識)全てが宝物だと考えて、楽しみながら宝探しをしましょう。

2022年6月16日 12:31
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

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