どこまでが直すべき自我なのか
以前から様々な方の悩み相談を拝見しており、参考にさせて頂いております、ありがとうございます。
はじめての質問をさせて頂きます。私はある大切な人との出会いをきっかけに、仏縁が出来、無神論者で虚無主義者だったところを、かなり改善することができました。
もともと私は自分勝手な人間でした。正義感はあったのですが我が強いために、独裁者に立ち向かうなどの良い行いに活かせたことも稀にあったのですが、それ以外のほとんどの面ではただの我儘な人間でした。さらに中途半端に哲学などの知識をつけてしまったせいで、反出生主義などの極端な思想に走り、その思想を家族にぶつけて困らせてしまったことも何度もありました。
好きなものへの執着心もひどかったです。自分だけがその存在を知り愛していればよいと思う一方で、それを好きにならない人間は悪趣味だとも思っていました。
つまり、私は(一般的に見て)悪人というほどではなかったものの、自分が好きな食べ物ほど他人に食べてほしいと思えるような成熟した人間では決してなかったのです。
しかし、仏教を学び始め、苦しみはまさにそのような自身のエゴが作り出していることを痛感しました。与えられるのを待つより与えるほうがずっと幸せになるということもよくわかりました。
問題は、そのことが分かった上で、仏教が理想的とする人物像に達するために、日常をどのように生きればよいのかわからなくなってしまったということです。
仏教を知らない人でもわかるような善行ならできます。でも、心の状態まで管理するとなると、例えば私は劣等感を克服して自分の容姿を肯定的に捉えられるようになり、それを活かすためにメイクするのが好きなのですが、このことはエゴへの執着となってしまうのですか?可愛い服を着た自分を可愛いと感じて自信をつけることは?
食べ物1つとっても、心が沈んでいるのをなんとかするために、好きなものを食べようとするのはいけないことなのか?と考えてしまいます。
作品はどんなものを観ればよいのか?私は児童文学が好きなのでまだいいと思うのですが、教訓のない物語を読むのは心に良くないからだめなのですか?
無学な私にどうか智慧をお授けください。お願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
我とセットな怒りや保身に注意して
仏教では煩悩を三種類に分けますが、分かりやすい欲、怒りに対して、それらの根底にある無知とは、まあ、いわゆる我のことだとさらりと言います。
それで、普通は欲や怒りをどうにかしなければと悩み、それらの根底にある我に気が付きにくいのですが、あなたは、自分の場合、我が問題だと指摘しておられます。
その内容を読むと、あなたが問題視している我は、怒りに関連したものが多いようです。
そこで、我をいきなり減らそうとしてむつかしいことをするよりも、それに基づいてつい出てしまう怒りを先にコントロールするとよいのではないかと思います。
たとえば、欲と怒りは裏表ですから、劣等感(怒り)の代わりにメイクで楽しくなったのは、怒りを欲に替えられたということです。同じ煩悩でも怒りより欲の方がましなことが多いですし、社会で生きていくためには、他者に嫌な印象を持ってもらわないように、最低限の身だしなみはすべきだと、これは比丘でさえ言われることですので、メイクして堂々と外に出て、外ですべき仕事を気持ちよく行うのは良いことだと思います。接する人々も、ウジウジした人と出会うより、溌剌とした人と出会うほうが嬉しいものです。
怒りに直接ぶつけて相殺効果があるのは慈悲の心です。我が出そうなときは「世間はこんなことも知らないのか」とか「こんな幼稚な考えなのか」という気持ちではなく、「みんな必死に頑張っている。生命はみな平等で、しかも現実には業によって千差万別で生きているが、どの生命も幸福で平安でありますように」と願って、慈悲の心を自分の中に作るのです。
慈悲は怒りの対治法ですが、慈悲の中に我を打ち消す「生命はみな平等」という心が入っているので、心が慈悲で満たされると、怒りだけでなく自動的に我も減ります。
慈悲の言葉は、慈悲喜捨の四無量心をセットにしたものが、日本ではスマナサーラ長老が和訳したものが(宗)日本テーラワーダ仏教協会のホームページで見られます。
我の本当の恐ろしいところは保身であり、そのために、世間では嘘、誤魔化し、騙しなど、信頼を踏みにじる行為がたくさん溢れています。嘘をつく人にできない悪行為はない、と仏教では言います。我を減らしつつ、しかも怒りが出ないように慈悲を育て、一方で歪んだ保身に走らないように、嘘偽りのない心で公明正大に生きるように頑張りましょう。
やり抜いた僧侶に学ぶ人間学
曹洞宗では❝突き抜けた人❞といえば近代では井上義衍老師や飯田トウ隠老師や原田祖岳老師などです。有名な坊さんより本当に自我の本質を見抜いた人や万人が救われる内容をきちんと提供できる人から学ぶのが良いでしょう。企業・政治のように「われこそは」と自画自賛する僧侶も多い世の中。それはエゴ・自己実現欲求のなすこと。
タレント僧侶さんや仏教系活動家さんたちと縁がありましたが、仏教を学んでいる姿勢でもやっぱり自己実現欲求が先んじてしまう気配もチラリ…。
宗派根性を捨て宗派や組織の為とか小さいこと抜きに人類みんな救われたらいい。みんながみんな菩提心の発展途上国の住民です。試行錯誤の中、時代。状況に合わせて高めてゆけばいいのです。今の中国では中国共産党が仏教そのものを破壊しようとする動きもあるので、あえて仏教仏教した姿勢を持たない「黙・秘・慎」する姿勢も大切。権力者が仏教を破壊しようとするからこそ僧兵や少林寺拳法のような防衛手段に向かった人間もいた。それも人類の歴史。私は坊さん世界で非道行為の放置やエセ人権や形式だけの仏教に嫌気がさしたのでこういう坊さんがいてくれたらいいなぁと思い、そういう坊さんがいないので自分で思う所を発信しておるだけです。
身だしなみも大切ですよ。和装の美のように過剰なエゴのない「道」に通じた美を追求されつつ、かわいらしい格好をされたらいいでしょう。
書も剣も禅も我をなくした「わたくしのない」心が最上=道です。
ただし、占星術・占い系の根拠のないものを信じてしまう癖は無くされた方がよいでしょう。そういうものを信じてしまう自分の心理をこそ学べば進むべき方向性がみつかる。心底、頼りとしたいものを必要としているからです。だからと言って、心理操作にたけた人たちの言葉は別の狙いのあるものですから、そういう人間の心理も見抜けるようになることでエゴに対してより敏感になれるでしょう。生活の為にそれを生業としている人たちもいるのです。
大切なことは仏教を学ぶ際に「外」にそれを求めないことです。内なる向上心、追求心、菩提心が堅固になれば、その心がおのずから確かなものを求めるようになるのです。他人に聖人君子を求めない。正義の剣で人を斬りつけるように強がってもそれは他人事。他人に聖人君子性を求めず、わが身我が言動がどうか。
自身のあり方を細やかに追求する事こそが道標・導き先となります。
質問者からのお礼
怒りより欲のほうがまし、というお言葉に励まされました。修行のためには一刻も早く我をどうにかせねばと焦ってしまったせいで、我のほうも焦って相当な力で反発しているようなので、まずは怒りを少しずつ減らしていくことを頑張りたいです。反射的に怒りが出てしまうので、そうなったら反射的に慈悲の心も出てくるように癖をつけようと思います!ホームページも参考にさせて頂きます、本当にありがとうございます。
ありがとうございます。時や場合によって、適切な行動も変わってきますよね。私も以前はまさに正義の剣で斬り付けるように、状況を考慮せず正論ばかり言っていました。このような過去を反省し、今では一呼吸してから、慎重に相手のためになることを言おうとしています。身だしなみについてのご助言も参考になりました。