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母子関係、仏教での捉え方は?

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私は40代ですが、小さい頃、こわいことがあっても母にくっついているだけで安心したことを、いまだに覚えています。
「母は万能、母が守ってくれるから安心」という感覚を経て、人はこの世に対して安心感を抱き、成長していくのだと思います。

ところが今の母を見ていると、あれほど万能に見えた存在がまったく万能ではなかったのだということがよくわかります。自分の安心感が、こんな未熟な存在一つに左右されていたのかと思うと、複雑な気分になります。

そして、私自身が幼児の母です。子どもがわたしにすがってくると、もちろん抱きしめて安心させてあげます。でも内心は、自分自身がちっとも安心していなかったり、マイナスのことを山ほど考えていたりするも多々あるんです。
要するに子どもは、私の演技を見て安心し、この世はいいところだと思い、満足しているわけで・・・。

こんなに未熟な私なのに、こんな私を見て安心感を培っているなんて。
馬鹿馬鹿しいとまではいいませんが、虚しいです。茶番劇に感じます。世の中のことがわからなくなってしまいました。
こうしたことについて、仏教の教えではどのように捉えているのでしょうか。
ご教示いただけると助かります。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

何も考えず ギュッと抱き締めてあげるだけで良いのです。

茶番でわ有りませんよ。 小さい子どもをギュッと抱き締める事に嘘は無いですよね。
私にも、2歳の息子がいます、さみしい時も、不安な時も、怒られた時も、眠たい時も、抱き締めて欲しい、ただそれだけで、素晴らしい事だと思います。

私も、こんなどうしようも無い人間が、親で良いのか、悩む事も多々有ります。未熟です、今になって両親の気持ちが少し分かる様な気がします。

お子さんは、あなたがいれば、ギュッと抱き締めてもらうだけ、ただそれだけで十分なのではないしょうか。

きっと、素晴らしい大人になるはずです。

未熟な親同士、精一杯もがきましょうよ。

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有り難し
おきもち

ラジオ パーソナリティ 『 命の 相談会 』開催 愛知県愛西市 の 大法寺 の住職をしております。 大法寺は、代々尼僧寺院であり、苦しんでいる女性を救い 「 おわりはじまりのてら 」 「 尾張の駆け込み寺 」と、呼ばれておりました。 白龍が住んでいると言われている、樹齢650年の大楠の元に、倶利伽羅不動明王の祠が有ります。 その宝剣で、悪い縁を切って下さると言われ、『 悪縁切り供養 』をしています。 病気、人間関係、依存症、自分の中の悪い想いを 切って下さいます。 縁切りの絵馬に、切りたい縁を書き込み、縁切りのお護りを授与しております。 是非、お参りください。 『 命の相談会 』 を、開催しております。 胸の中にあるもの、だれにも言えない事を、全て吐き出しましょう。 一緒に泣きましょう、一緒に叫びましょう、一緒に笑いましょう。 自坊、ショッピングモール、赤十字血液センター、カフェ、放送局、等で 定期的に行なっております。 日程は、ホームページで、確認してください。 ホームページ www.daihouji.org 『 樹木葬 大法寺 』 『 縁切り 大法寺 』 で検索してください。 緊急の場合 苦しかったら、辛かったら、電話ください、 09066179353

最強の母親になるべきです

素晴らしい気づきですね。
母親が母親としていつか壊れてしまうものを頼りにしているままの母親では、次の世代の子供も同じ思いを感じることと思います。
ではどうするべきか。
簡単な結論から申し上げます。
私の父と師匠は、絶対的に自分を救う教え、生き方を手に入れていました。
だから私は絶対的な安心感があります。私もその同じ教えを学んで、自分を救うこともできて、その体験談を語る事で一定の方々から「有り難し」という支持を頂いています。
この世には仏教という優れた教えがあります。
宗教的に信仰する気持ちがあっても無くても構いません。
「壊れないもの(仏法=真理)をよりどころとする」ということは、言い換えれば、心が減ったり、損ねたり、不安になったり、しない生き方を手に入れるということでもあります。
あなたが衰えていく母をみて不安を覚え、やがて衰えていく我が身と我が子を案じているということは、不安定な状態です。それは授乳や接し方を通じて子供に不安感を与えてしまう危険性につながりますので、茶番だとか、虚しいだとか言わんことです。
仏教は病気になっても年を重ねて衰えても、死んでも「大丈夫」になる優れた教えです。
あなたた自身が病気になったり年老いたり、死を迎えることになっても安心してそれを迎え入れるようになる為にも、他人様はどうあれ、まずあなたが❝大丈夫❞になることです。
その智恵を知識として知って、体得として学び得ることで、あなたはあなた自身とお子さんを救う偉大な力を手にすることができます。どうぞ、学んでみてください。
子育てで時間が無ければfacebook内のグループ「TOKYO禅」にご参加いただき、納得がいくまで、ご質問をお寄せ下さい。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

2歳のお子様のお父様・・・なんだかお寺にぐっと親近感がわきます。アドバイスありがとうございました。

「他人様はどうあれ、自分が大丈夫になる」・・・私は他人との関係性で自分を判断してしまいがちなのですが、まずは自分に目を向けることが大事なんですね。
アドバイスありがとうございました。

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