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人間とは生きるだけで罪か?

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人間とは行動、言葉一つで人を殺せるものだと感じております。
それに動物も人間のエゴで去勢やら避妊など自然の摂理を無視したことを平気でやっております。私も猫を飼っており避妊と去勢をしました。人間の世界にとっては至極当たり前らしいのです。
ですが私は疑問に感じております。人間如きの裁量で他の動物達の未来を奪って良いものか?と。私が感じているのは人間如きに生命を自らの裁量で決めていいのか?ということなのです。
人間とは自分が気に入らなければ平気で他人を虐めたり殺したりしますよね?果たしてそんな罪深き人間に存在価値はあるのか?どうぞ御回答よろしくお願いします。

2022年6月29日 0:27

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無法地帯をやってみた結果が今の法と法の改善・更新

結論を先に申し上げれば人道主義の究極のクオリティを求めていくことです。ただし、その中でその人道主義が!もし間違っていたり、偏っていたり、正義の剣で自分も含めて誰かを切りつけているとしたら、それも罪では?とを自己点検しながら信念のもとにできることを活動するよりほかにないと思います。あなたがもし知らない間に㋚翼利権の活動家に扇動されて偏った環境保全主義に染まってしまい、自分をいたずらに責めていたり、結果的に誰かの利権・権利に加担する様な事をさせられていたらそれは丁寧に見つめ直す必要があります。曹洞宗でも環境・人権・平和の活動があり、私もあなたと同じようなことを考えたことがあります。ですが、環境保全、人権擁護、平和活動、SDGs活動には必ず!煽る陰に利権アリ。👿
人の正義心を利用して誰かを攻撃して人を煽って営利活動をする輩が数多く存在しているという現実があります。そのあさましさをこそ「人間界」というのでしょう。世界に人間の理想をぶつける時点でそもそもお手付きなのだと思います。だからと言って何もしないのは無慈悲。
もし荒野にあなたが一人で放り出されたらあなたの命もその考えも瞬時に捕食され失われてしまう。お釈迦さまの時代にもワシに子供をさらわれて食べられてしまったという痛ましい話があります。
金子みすゞさんの世界観からすれば
「朝焼小焼(あさやけこやけ)だ
大漁だ。
大羽いわしの
大漁だ。
浜はまつりの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう。」
悲しい詩ですが事実であるように見えてこれは一方的な事実でもあるのです。
たしかに、生命を尊重するすばらしい句であり、人間のエゴのおぞましさを戒める良い詩です。爆漁や爆猟や絶滅を抑止する立場とすれば本当にすばらしい響きを持っております。ですが、これは真理ではありません。
その大漁によって我々の生活が成り立っている。おさかなさんのおかげで私たちは生かされている面もあるのです。お米、小麦、穀物、植物だってお命です。ビーガンだからって偉いというわけでもありません。そもそもの大真実が命は他の命を頂戴しない限り生きていけないよ、ということがこの世の大真実です。
食べることは罪でしょうか。食べなければ自死でしょうか?
即身仏は自殺でしょうか?誰がそれを裁くのか?
あなたが強く菩提心を発願することでその答えは見つかります。

2022年6月29日 8:23
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

御回答誠にありがとうございます。私の心の疑問が一つ解消された感じが致します。
私も菩提心を強く持ち、生かされていることに感謝しながら生きていこうと思います。

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