年明けを待たずに死にます
現在、貯金を切り崩して生きています。
このまま稼ぐ手段が見つからなければ死にますが、自分が野垂れ死ぬことには納得がいくというか、客観的な視点で「こんな奴死んだ方がいい」と自分にずっと思いながら生きてきました。
問題のある人格に対して「そんなんじゃ生きていけない」と家族から「厳しくも厳しくもありがたいお言葉」をいただきながら育ちました。結果、その通りになりました。
この世界がうまく回っていて、私だけに問題があるのならばまだ生きる希望がありました。しかし、現実はそうではない。私が生きていてもいなくても、この世界はどんどんと悪くなっていく。そもそも、生きることそのものが欠陥だとしか思えません。
人生は「他人にどう見られるか」が全てです。完全な自給自足ができない以上、何かの手を借りなければなりません。そのためには他人に好ましい印象を与えなければなりません。私はそれができませんでした。
この世界は私が生きようが死のうがどうでもいいものです。生きていられる人間は、「自分を大事にしたい」という動物的本能を疑わないでいられるから生きられるのです。しかし私はその本能こそが全ての苦しみの元凶と憎み、「全ての生命は存在しないほうがいい」という強固な思想に囚われています。これを打ち破る根拠をこの世界に見出せれば良いのですが、その機能が私に備わっている気がしません。何を論じられても、申し訳ないことに、「わざわざ生きる根拠」にはなり得ません。この世界には私よりもずっと有能で賢い人間が沢山いるのに、全生命を安楽に絶滅させる方向に行かないのは、私が決して感じることのできない「それでも生きる意味」があるからなのでしょう。
私の人格や感性が望まれたことなどありませんでした。それとも、関わる人間の誰からも死を望まれながら、殴られながら生きるのが修行でしょうか?
未来を捨て、この世界や他の人間に「生きさせてください」と頭を下げ、心身を削る「労働」を辞めた今が人生で一番安楽です。つまり、私の幸福は死の直前にしかありませんでした。
私の望みは、「物質世界から解放される」「五感、痛覚、あらゆるものを感じる機能を失う」「誰からも観測されない状態になる」こと、つまり、「永遠の死」「存在しないこと」です。そして、これこそがあらゆる生命が目指すべき地点だと思っています。こんなことを考える人間だから生きられないのです。
苦しみが避けられない「生命」というシステムを心の底から憎悪し、「存在していたくない」としか思えない。 否定されるのが当たり前すぎて何もする気が起きず破滅思考気味。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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輪廻からの解脱を。
素晴らしい考えですね。
この世は五濁悪世(ごじょくあくせ)であり悩み苦しみの世界だと、仏教経典にも書かれています。
それを理解されているあなたは、悟りに一歩近づいたのかもしれませんね。
仏教的には、悟って煩悩(生への執着や欲・怒り・怠け・プライド等)を亡くせれば、死後に二度と輪廻転生しないですむ涅槃(平安なる滅び)に入れると考えられます。
裏を返すと、煩悩がわずかでも残っている場合は死後に別の生き物に生まれ変わってしまうのです。
そこで浄土宗では、まずは悟り易い環境である極楽浄土に生まれ変わる(往生する)ことを目指します。
極楽浄土に往生すれば、阿弥陀仏のご指導のもとで完全な悟り(煩悩消滅)に達して涅槃に入れる。あるいは、自分も他者を教え導き救う仏様になることができる。
ということで、あなたが汚れきった輪廻転生の世界に絶望する考えは間違っていないと思います。
ただ、確実に涅槃に入ったり浄土に往生したりできるかはわかりません。
往生極楽を確定させる方法として、
いつ死ぬにしても、普段から南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と念仏を唱えて、阿弥陀仏の力で臨終の瞬間に極楽浄土に迎えてもらえるように願いましょう。
追記
自殺されたら悲しむ人や損をする人がいるので、評価はされにくいでしょうね。
たとえば、警察の手間を増やすことになります。
追記
お釈迦様の場合は、悟ったあとにもう死んでも良いなと考えたんですが、梵天という神様に頼まれて、人々に教えを説くために生きました。
本当に自分への執着がなくなれば、逆に平気へっちゃらで生きられるのかもしれません。
悟っていない(勘違いを克服していない)私達は結局、生きるのも死ぬのも自分一番、自分のためになりがちですね。
質問者からのお礼
全ての自殺が往生の手段として受け止めてもらえれば良いですね。
早く、誰もが物質的世界から脱却できる世界になってほしいものです。
「生きていたい」という本能に逆らう「自殺」は、どうしてもっと評価されないのでしょうか?
それは結局、自殺者よりも自分を大切にしている人の視点です。
わたしはずっと他人のそういう本音を受け、自分には自分を大事にする権利などないと知りました。
生き物が生きていられるのは「自分を大事にして良い」と勘違いしているからです。私にはもうその勘違いができません。