魔境
台湾にいた頃道士さんから内丹法という瞑想を教わり以来続けています。 時折何とも言えない気分の良い状態になりその感覚を追い求めるようになりがちです。
溺れないよう景色を眺めるように客観視に努めるということでしょうかね。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
一切衆生に広く回向すべし
何かをしようとする心の行為がそこにとどまろうという脳の働きになり、気分の良い状態を求めてそこに浸ろうとするとそれが目的になります。
坐禅も瞑想も念仏も止観もマインドフルネスもそこに菩提心、発菩提心がないと結局自分のための行になる。自分のためのヨガ、美容のためのヨガ、何かのためのヨガ、ヨガが悪いわけではありませんが、美しさやわが身をたかめようとすることの「ための」行になってしまうのではないでしょうか。
お釈迦さまや祖師たちは美容のために坐禅しなせぇ、瞑想しなせぇと言われたわけではないはずです。
そこに菩提心があるかないか。
人間が人間の世界のこの上ない最高最上の心になるということは簡単に言えば自分も相手も救われていく、自分も相手も安らかになれるような立派な人格・人間性も伴わなければ結局セルフということになってしまう。
セルフでよければお釈迦さまも祖師方もみんな世間のことなどホットケさまだったでしょう。世間のイメージでは出家・出離とは隠遁のようなイメージがありますが、立派な祖師たちは世間から目をそらして永遠に山籠もりをしていたわけではありませんから、自分も救い人々も救うようでなければならんということでしょう。
某アヤシイ教団が教団の教義でしばる・しばられるような「それ以上向上のない」人間を枠に閉じ込め押し殺してしまうようなものであるとするならばそこからさらに疑問をもって「このままで良いのか」と自問自答してさらに向上心を持ってみるとよいでしょう。
禅宗では「格外」「超師」ということが重んじられます。
とびぬけろ、師を超えろ、と。
そういう大きな心の方向性をお持ちになられると尚、良いでしょう。
単純に申し上げれば、料理・調理の勉強をして自分史上、最高に美味しい料理を作れるようになったのであればそれを多くの人に広めるということがあってもいいでしょうし、更には食育、命の尊さ、生きるということの大切さにも目が開くようになるということです。食材一つでもそれがどこから作られてどのような影響が体におよぶかということを安全面でも考える用に、瞑想・坐禅をして、「どうなること」が人生において大切なのか。宗教性を欠いたマインドフルネスがそれ以上の成長が無くなってしまったように、真の宗教性とは何か、人生どうなればよいのか?そこを問う姿勢も大事だと思います。
質問者からのお礼
空っぽがよいんですね。
先生のところへいつか座りに伺いたいです。
有難うございました。