hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

魔境

回答数回答 1
有り難し有り難し 11

台湾にいた頃道士さんから内丹法という瞑想を教わり以来続けています。         時折何とも言えない気分の良い状態になりその感覚を追い求めるようになりがちです。
溺れないよう景色を眺めるように客観視に努めるということでしょうかね。

2022年7月21日 14:31

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

一切衆生に広く回向すべし

何かをしようとする心の行為がそこにとどまろうという脳の働きになり、気分の良い状態を求めてそこに浸ろうとするとそれが目的になります。
坐禅も瞑想も念仏も止観もマインドフルネスもそこに菩提心、発菩提心がないと結局自分のための行になる。自分のためのヨガ、美容のためのヨガ、何かのためのヨガ、ヨガが悪いわけではありませんが、美しさやわが身をたかめようとすることの「ための」行になってしまうのではないでしょうか。
お釈迦さまや祖師たちは美容のために坐禅しなせぇ、瞑想しなせぇと言われたわけではないはずです。
そこに菩提心があるかないか。
人間が人間の世界のこの上ない最高最上の心になるということは簡単に言えば自分も相手も救われていく、自分も相手も安らかになれるような立派な人格・人間性も伴わなければ結局セルフということになってしまう。
セルフでよければお釈迦さまも祖師方もみんな世間のことなどホットケさまだったでしょう。世間のイメージでは出家・出離とは隠遁のようなイメージがありますが、立派な祖師たちは世間から目をそらして永遠に山籠もりをしていたわけではありませんから、自分も救い人々も救うようでなければならんということでしょう。
某アヤシイ教団が教団の教義でしばる・しばられるような「それ以上向上のない」人間を枠に閉じ込め押し殺してしまうようなものであるとするならばそこからさらに疑問をもって「このままで良いのか」と自問自答してさらに向上心を持ってみるとよいでしょう。
禅宗では「格外」「超師」ということが重んじられます。
とびぬけろ、師を超えろ、と。
そういう大きな心の方向性をお持ちになられると尚、良いでしょう。
単純に申し上げれば、料理・調理の勉強をして自分史上、最高に美味しい料理を作れるようになったのであればそれを多くの人に広めるということがあってもいいでしょうし、更には食育、命の尊さ、生きるということの大切さにも目が開くようになるということです。食材一つでもそれがどこから作られてどのような影響が体におよぶかということを安全面でも考える用に、瞑想・坐禅をして、「どうなること」が人生において大切なのか。宗教性を欠いたマインドフルネスがそれ以上の成長が無くなってしまったように、真の宗教性とは何か、人生どうなればよいのか?そこを問う姿勢も大事だと思います。

2022年7月23日 8:18
{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

空っぽがよいんですね。
先生のところへいつか座りに伺いたいです。
有難うございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ