「趙州洗鉢」の真意とは
無門関 第7則に「趙州洗鉢」という公案があります。
ホームページで読み解かれていることは以下のような内容です。
・日々の勤めを励むべき
・「当たり前を当たり前に、今を生ききる」
・平凡に生きることが禅
・食事と食器を洗うことは、不即不離の関係になると申せましょう。今さら申すまでもありませんが、日常生活を大切にすること、つまり、凡事を徹底することにあると思います。
修行僧が悟る機縁となるべき「公案」を一般人の生活指導のように説いていられる感があります。質問した僧が体得したことと一般人が体得すべきことが分けられていないように感じられます。
問いは答えだとよく言われます。以下の2つ質問いたします。
1.趙州和尚の真意はどこにあるのか
2.修行僧は何に気づいたのか
お答えいただければ幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
本当は食べたら洗うとか凡事とか日常底とか平常底ではない
祖録とは本来、道徳仏教的な教訓を説くものではなく法の要、第一義を説く。
ネット内にあふれる世間一般の説は「解釈」。提唱ならざる俗説。
こじつけ仏教、意味付け仏教と呼ぶべきもの。
解釈は人の数だけ存在する後発的仏教であり、真意ではないもの。
禅語であれば脚下照顧を「履物をそろえる」という風に解釈する類。アシモトヲミル。
或いは仏の半眼を「半分は見て半分は目をつむる」というような俗説・後付け・意味づけ解釈仏教。別に悪くはないですが、それらは祖師の真意、如来真実義ではないもの。「解釈」だからです。仏法の真意は解釈では✕です。解釈は無数に表現が成り立つ。
「当事者ではない外部の人間が別方向に話をかき回す」ようなもの。
それと似たようなことが仏教世界にも多くある。
悟りの機縁となる「公案」が一般人の生活指導のように説かれている👉まさにその通り。一見すると正しいように思えても実はまるで別モノ。
・日々の勤めを励むべき👉それで法を得たと言える?→否
・「当たり前を当たり前に今を生きよう」👉今ここ至上主義→救いと言えるか?→否
・平凡に生きることが禅?👉平凡で何でも🆗なら最初から仏法など不要では?
・日常生活を大切に凡事を徹底👉凡事と呼ぶは誰か?法に凡聖なし。
つまり法がない。救いがない。
では、
1.趙州和尚の真意はどこにあるのか
2.修行僧は何に気づいたのか
多くの人が仏道修行というと外を見る。たった今の手つかず自己の身心の本来の純粋活動をみない。話・やりとりに伴う後発の意味付け世界を見てしまう。
この自己の作用ではないところを相手にして他事・他所に何かを描くクセ。別事・別所・別状況に別の真意を求めるクセ。「別」とは「日常を行なう」とか「当たり前のことをやろう」といういわゆるサブ・仏道っぽい解釈・描くクセ。
仏道らしいことを「別に立てて」いるでしょう?もうその時点で別モノ見解。それは人間の後付けの姿ぢゃ!と見抜いてください。どうして、人は今のこのこと以外のどこかに仏道修行らしいことを描き求めはじめるのでしょう?目が他に向く。それを「立てる」といいます。別のものを思い描く追求・見解グセをやめる。人は24時間自己の作用でない時がない。趙州と僧とのやりとり別の思い描きがなく他に旅立つことがないでしょう。後付けの解釈前の手つかずの「飯。」「洗。」に他の「何か」の介入はない。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
ネット上での様々な解釈は、その人の勝手な解釈で書かれていることを再認識できました。初心者は自分に都合の良い解釈を鵜呑みにしてしまうということでしょうか。
大変わかり易いお答えありがとうございます。
私たちは自らの行動を客観視してしまう癖があります。絶対主観で朝食を食べているのに、自らを客観視して二項対立の住人とみなし、客観視された自分が「はい」と「いいえ」を応えているかのように感じます。ただ食べたといいう事実があっただけなのに「私」をあとづけして、「私が食べた」としているということでしょうか。
僧が後付の解釈で答えたので、すかさず2つ目の事実に気づきなさいと聞いた。後付の「洗」ではなく、自己の作用としての事実に気づくように促したということでしょうか。
僧はようやく、主観で生きていることに気づき、客観で見てしまっている間違いに気づくことができた。
無我無心の本来の自己の働きのままに生きているではないかと趙州は言ってくれている。
様々な人が閲覧するネット上であっても、悟りの機縁を正しく伝えてくださるお坊さんが増えてくれることを期待しています。
今後のますますのご活躍を願います。