戦う意味とは?
先日、NHKで『戦禍のなかの僧侶たち〜浄土真宗本願寺派と戦争〜』という番組が放映されていました。
日中戦争、太平洋戦争の戦時下の動員に仏教自らも(当番組では対象を同派としていましたが、国民総動員法の元ですので宗派に関係はないと思います)戦争に加担してしまった、その実態を取材した内容でした。
77年前のはいえ、生々しい出来事の記憶です。
一方、日本史という仏教が伝来し、今日に至るまでの長い目で見たとき、お坊さんはある時、僧「兵」でもありました。また、信仰のため、民衆のため、中々アグレッシブな姿になる事もあったと思います。
私は、仏教については高校の教科書程度の知識しか持っていませんが、印象としては「穏やかな宗教」といったものです。
例えば、キリスト教やイスラームには「聖戦」という教義がありますよね。
では、仏教ないし仏教徒が「戦う」とき、戦いを「是」とする考え方はあるのでしょうか?
もちろん、それぞれの事象の背景には「そうなる経緯」があります。ですので、一概には言えないと思いますが、こんな考え方、こんな教義があるというものがあれば、宗派関係なくご教示願いたいです。
あと、これは愚痴?ですが、いつも戦時下の鉄の供出にはがっかりします…お寺さんの鐘もさぞかし由緒があったろうに…。
お忙しい中とは思いますが、ご回答をよろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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道具は使い方次第
日本の仏教は在家仏教と言える状況であり、戒律を守ることにこだわらない傾向があります。
たとえば、お釈迦様は不殺生を説き、たとえ誰かに身体をノコギリで切られても相手に怒ってはいけないと説かれました。
しかし、日本の仏教ではそこまで不殺生や慈悲を徹底できていません。
徳川家康なんか南無阿弥陀仏と書いた旗を掲げながら戦をしたそうです。
念仏すれば悪人でも極楽浄土に往生できるという教えは、死の恐怖を軽減し、戦いに必要な勇気を与えてくれるでしょう。
つまり、仏教という道具の都合の良い機能だけを、世俗(在家社会)で利用することが可能なのです。
また、スリランカ・タイ・ミャンマーなど敬虔な仏教徒が多い国でも軍隊はありますし戦いは無くなりません。
人間に欲・怒り・怠け・プライド等の煩悩があるかぎり、戦いは無くならないのかもしれません。
戦いの場面でも、悩み苦しみストレスを減らす仏教のテクニックは利用可能なので、都合良く使われる可能性はあります。
仮に、日本に他国が攻めてきたら、国民世論は戦うことを選ぶでしょう。(敵に土地や財産を明け渡しておとなしく侵略されます、とはならないでしょう。)
だから、現代の仏教寺院にも、やはり戦争を止める力は無いでしょうね。
人間の煩悩(自分の生命と財産への執着)は、それほど強力なのです。
お寺の鐘も煩悩のためには、武器の材料にされてしまいます。
それでも、平時において、お釈迦様の教え(不殺生や慈悲など)を説き続けることは無意味ではないと思います。
質問者からのお礼
ご回答いただき、ありがとうございます。
返信が遅れ、失礼致しました。
仏教を「道具」と表現されたのは、少々驚きました。これは、私が勝手に「神聖なイメージ」を仏教に持っていたからですけれども…(「仏」ですけれど)。
ですが、確かに言われてみればそうなのかもしれませんね。教えは未来永劫不変でしょうが、その解釈は様々ですものね。
戦う勇気を与え、心身の傷を癒す。
平時には殺生をよくないと分かっていながら、戦時にはその正当性を説く人の心の不思議さ。「煩悩」の一言で私はまだ理解ができそうにありません。
また、質問させてくださいね。