hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

餌が無いと努力できない自分を変えたいです

回答数回答 2
有り難し有り難し 10

20代の会社員男性です。主体的に動くことを面倒に感じる自分の心を治したいです。
毎日仕事に向かうことに苦痛を感じ、かといって没頭できるほどの趣味も無く、毎日をただ何となく生きており心が磨り減っているように感じます。頭ではこのままではいけないと思うのですが、新しい出会いや趣味を探してみようと考えてみる度に頭の中に最初に浮かぶ言葉は「面倒くさいなぁ」なのです。特に仕事ではこの傾向が顕著に現れるので、毎朝「仕事に行きたくない」という心の声と格闘しています。
自分の人生を振り返ると自ら意欲的に動いたことが無く、たとえ動いたとしてもそれは常に必要に駆られたから又は誰かが用意した餌に釣られたからでした。
こんな自分を変え、挑戦することに喜びを感じられるようになる方法は何かあるのでしょうか。よろしくお願いします。

2022年9月1日 10:53

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

悟りを求めることでおのずから無条件で人のお役に立てる人になる

仏教とは仏の教え。仏とは覚者=悟った人。悟った人の教えです。
悟りってなにか。自己を明らかにした人。自己の本来性=法を明らかにした人。人間の元々のところを体感した人。どうやって体感できるか。坐禅して自己をみつめていくと人間は元々考えや主義思想、何かの価値感、取りつかれに染まる以前の心にいたる。
ある人は人々が喜ぶ最高のアイデア、チエを無償で提供できるのに、
ある人は一生ドケチ人間で終わってしまう。
真実の価値、優先順位を知らず安い価値を最高と思うからケチなのでしょう。
条件付けやケチの心を無くすのは簡単です。
人類共通の教育・宗教がケチケチ教だけだとします。
するとみんなケチケチ教に洗脳されているので何をするのも条件付け。
救急車で運ばれるような状態でもケチなので(´-`*)「めんどくさい。自分で直してくださーい。」となる。結婚しても条件付けの契約結婚。愛だの慈悲だの信じられなくなって子供も親に金よこせ、親も子供に金よこせとなる。そういう唯物主義、エゴ教を無宗教というのです。世の中にケチケチ精神が広まればあなたも損ばかりで蹴落とし合い。自分がそれを選択していることを念ずるのです。
誰がやろうとおケチはどこまでいってもおケチなので「喜ばしくない痛い精神」だということがわかります。
あれやったからこれよこせ、これやったからあれをくれという条件付けの心。その根底にあるのは何か?それが人間のわが身可愛がりの「我」の心です。このあさましくもやましい我の心は誰にでもあるのです。この我の心が知らぬ間に立ち上がる。我の心がある人は自分ルールの通りにならないと腹が立つ。急いでいる時に前の人が遅いと腹が立つ。自分の理想とかけ離れていると腹が立つ。何をするにも「困る」ことだらけなのです。回答僧が都合の良い答えをくれなければチェッと思う、怒られたと思う、ハズレと思う、腹が立つ。
そういう「我の心」は立ち上がる瞬間がある。だからその立ち上がりを無くす。
我の起動・立ち上がりを無くすためには坐禅して能動意識を一切用いない。
するとエサが無くても無条件で人が幸せになれる心の周波数のあることを自覚する。ただし、そこでケチな人はそれすら自分の為にやろうとすから一生救われない。なぜ救われないのか。それは自分が向上できない心理を優先選択しているからなのです。そういう生き方をやめようと念ずることです。

2022年9月1日 13:59
{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

私も「めんどくさい」ですが

チキンさん、はじめまして。質問を拝読しました。

チキンさんは主体的に動くのが面倒くさいのですね。私も「めんどくさい」です。チキンさんに共感したので回答を書かせてもらいます。

ある人は、「めんどくさいことがあればゲームとして楽しめばよい」と言います。いかにめんどくさいことを早くやるかをゲーム感覚で楽しむのでしょう。

でも、それができればhasunohaに質問などしないわけで。

私の場合はめんどくさいことがあると、ふたつのことを考えます。
1、気が乗るまで放っておく
放って置いても差し支えないことなら、しなくてもいいことです。
2、重い腰を上げてちょっとだけやってみる
全部やろうと思うからめんどくさい。とりあえず取りかかれば何とかなるものです。

挑戦することに喜びを感じる人は、たくさんいません。めんどくさいことをちょっとだけやってみましょう。私も重い腰を上げてめんどくさいことをちょっとだけ取りかかっていこうと思います。

合掌

仏教の知恵で心豊かに過ごせますよう祈念しております。

2022年9月2日 14:54
{{count}}
有り難し
おきもち

徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ