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恨みを捨てるには

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有り難し有り難し 34

5年半前に掲示板で酷く叩かれたのをきっかけに、感情が麻痺したようになり、
楽しいとかワクワクするとか悲しい等という感情を感じられなくなり、
書かれた悪口が起きてる間中、頭の中をリフレインして一日中気分がかなり沈んでます。
その掲示板で書かれた事が真実と思い、自信が持てなくなりました。
その人を今でも恨んでしまうのですが、どうすれば恨みの感情を捨てる事ができるでしょうか?

2022年9月2日 5:57

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

恨む前にその人も弱くて必死だった、その程度だったと見抜く。

境内の立派な桜の木が変なキノコが生えて桜の木をボロボロにしてしまいました。
また、飼っていた金魚に別の金魚を入れたら双方が死んでしまいました。
市内に住んでいる方が花を育てていて外来種とは知らずに増やしていたらあちこちの畑にまで飛散しました。
うちで飼っていたニワトリはどんどんアライグマやキツネに食べられてしまいました。
近所で遊ぶ小学生で一人いじめわるな子がいるのですが、その子がいない時、みんなめちゃめちゃ楽しそうでした。
人生の真実はキレイごとではないと思います。
道理が正しいかどうか。
あなたもネットで相手から酷い書き込みをされたことでいろんな学びがあるのです。まずはダメージだけだと思わない事。カレーの辛さだと思うことです。
キッツイ刺激だったと。だって、大丈夫な人もいるのですから。道理を知る。人間の心理を知る。
言葉というものは相手が脳内で思ったことをただ発しただけです。
それを私的に受け止めない事。
酷いいじめにあったことのある人がその不満から「ほんとアイツ死ねばいいのに。」と口にしたからと言って、その言葉が人生の心理であるという程の事ではありません。正直な感想、印象が思わずポロリしただけの事。そういう言葉の発せられ方があるように、見えない相手が見えない相手に対して過激な言葉を吐いたら世間ではそれを暴言と捉える人が多いですが、本当はそうではない面がある。
ただ、その人が思ったことを言った。脳内で沸いた言葉をつぶやいた。それがその人の言葉がポロリしたというだけです。そういう瞬間があるのです。それを後から僕が傷つけられたとか、恥をかいたとか、悪く受け止めた、悪くキャッチした瞬間があるだけではないでしょうか。
そこまで巻き戻し、早戻しして、変な評価を塗りたくる前のあなたに立ち返って、ネガティブで悪い思考に染まる以前の自分を思い出すことです。
弱い人程マウントを取ってくるものです。
世間のマウントを取ってくる人間やエゴの強いあさましい人たちを見てください。
そういう心理がスケスケでしょう。つまり、彼らこそあなたより活きることに必死なのです。だから強がったり、弱い者を叩こうとする。そういう可哀そうな人たちですから、心に寄生されないようにすることです。
事実、お釈迦さまも古い食事を施されて体調を崩し、達磨大師は毒殺されました。
危険な分子とは関わらないことも大事です。

2022年9月2日 11:15
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご丁寧にありがとうございますm(_ _)m
ただ相手が思っただけの事を真実と思わないようにします。

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