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法華経の譬喩品について

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法華経に魅了され、法華経を読み続けていますが、一つだけ気になる点があります。

譬喩品の後半には、法華経を誹謗した者は来世において身体に障がいをもつことや、病人になり死に至ることや皮膚病になることなどが書かれています。

実際にこのような状況にあり苦しんでいる方々がいる中で、法華経のこの部分を理解することがとても難しく、苦しいです。

2022年9月28日 14:36

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

菩提心とはポリコレをも超えた一切を善導する力 

その説の後の方に、この御経は菩提心を持つものにだけ説き聞かせなさいという言葉が出てきます。菩提心を持っている人がそれを読めば別の方には向かわないけれど、菩提心を持たない者は曲解が生じたり、他の話がメインになってしまうということがあるのです。
法華経に限らず古典は当時に記されたものです。現代のようにすべての人々に配慮するポリティカルコレクトネスなどのルールなどありません。行き過ぎたポリコレや多様性は正義の剣となって善悪を裁くことがメインになります。
昭和オヤジが我が子をより良く導かんとして「この◎◎◎め!」と暴言のように聞こえるものでそれも愛。表現能力や学が無い、現代風ではないということだって恵まれない時代・状況なのですから可哀想でしょう。音楽も社会の底辺から誕生したものは言葉が乱暴ですが、それを無くしたら魅力がありません。今の時代の人権・ポリコレと関わらせるとまるで別の話になってしまいます。本道・主旨が先にあって「これをやればより良い方向へ進めるよ」という趣旨を説いているだけで、細部にこだわるとズレます。現代でも悪いことをすると世の中で一般的に苦しいとされる❝このようなこと(文中の現代的には不適切な表現)❞のようなことが起こりかねないよ」ということがあるはずです。それを時代を超えた現代の第三者、人権や差別やポリコレを関わらせると仏典に限らず世界中の大半の本が趣旨とは違う方向をメインとさせて趣旨がズレてしまうでしょう。
うちの子供も発達障がいを抱えております。発達障がいということばもそのうち不適切だという時代がくるでしょう。あなたのように言語に繊細な方が現れたらそのものを菩提心でより良いカタチに導けばよいのです。
ポリコレや言語狩りは仏典の中にある現代においては差別と捉えられかねない表記を指摘しては何かと批判の材料にしようとする人もおられますが、お互い丁寧な姿勢が必要です。中には別の目的がある人もいますので何でも差別だ人権だポリコレだという正義パトロールは「裁くことや善悪をつけることをがメイン」となっています。
難癖をつける、価値を貶めることがメインになってしまうのです。
だからこそ、そういう双方の心をもより良く導く精神こそ菩提心であり、高い人間性を求める精神です。
当時の時代背景による表記は現代においては新たに適切な訳、配慮のある現代訳を個別に設けるべきでしょう。

2022年9月29日 8:25
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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