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虚しさから解放されたい

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有り難し有り難し 23

先日書店にて、育児書で有名なとある著者の本を目にし、その方のプロフィールを拝見したところ、「〜大学教授の妻、〜の息子の母」と言った形で紹介されていました。

結婚や育児のために、仕事社会を退いた人間はこの先の人生ずっと、「誰かの何か」扱いなのでしょうか?誰かにとっては特別で誇り高いことですが、その誰かの何かの立場からですと、アイデンティティロスです。「誰かのため」とは無縁の、自分が歩んできた過去、その中の一つ一つの選択が無意味なモノに思え、虚しいです(あくまで私個人の見解ですが)。

2022年9月30日 3:55

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「私」って何なのでしょう

ご相談拝読しました。

ある本の著者プロフィールを通して、あるいはご自身の現状を通して、アイデンティティ・・・つまりは、「私とは何か」という人間の根本問題について、喪失感を感じ、空しさと不安に苛まれていらっしゃるのですね。

それはとても大切な課題であると思います。簡単な答えを出さずに、大切に抱えて歩んでいきましょう。

その著者のプロフィールが「誰かの何か」という書き方であったことに違和感を覚えたとのこと。ごもっともであると思います。では、例えば育児専門家とか本人についての形容であったならば違和感はなかったのかどうか。

それはつまり、あなたの感じている虚しさが、これから女性の社会進出やそれに伴う世間の理解や価値観の変容など、周りの影響によって埋まり得るものなのか、それともそうではなく実は自分自身の課題であるのかという問題です。

私とは一体何なのでしょう?

大学教授という肩書きも退任したら、社長という肩書きも退社したら消えていきます。元○○としたとしても何だか少し空しい気もします。それらの肩書きが自分自身を表していないわけではないですが、どれも失われていくものである限り、自分そのものを表してはいないからです。

仏教では私というものを関係性で考えます。母の私、妻の私、親の私、お店のお客さんの私、自然の消費者の私・・・・どれも私であるけれども私そのものではない。
どこかに本当の私がいたならそうではない私は嘘の私になってしまう。でもそうではない。どれも私の一部・一面ではあるけれど全部ではない。

結局、私の視点で私を捉えようとしても、見る私と見られえる私の分離が起こり、常に見られる私(私がとらえた一部の私)の背景に見る私(認識できない私)が残ります。

その私全体を包んで「汝」と呼びかける存在を仏といいます。私まるごとを救いたいと願うのが仏様なのです。

あらゆる関係性によって成立せしめられる私。その一つの関係性をあらわす肩書きは私そのものではない。でもそれも一つの私なのだとして、ある種のわかりやすさや世間的価値観を受け入れられることも大事なのかも知れません。

でも、もっと大事なのはあなたが今お抱えの感覚を大切に掘り下げ続けることだと思います。
結局誰かや何かによって私を満たそうとしても、満たしきれないものがあるのでしょう。答えにならずごめんなさい。

2022年9月30日 10:22
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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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広げて視てみると

拝読させて頂きました。
あなたが誰かの為の私と思った時に虚しさを感じておられることを読ませて頂きました。あなたのお気持ちを心よりお察しします。

その著者のプロフィールを見てその様に印象を持たれたのかと思います。その著作や著者の方については全く分からないですけれど、その書籍が「育児本」として販売している以上売り上げを上げなければなりません。ですからその著者が「有名な大学教授の妻として立派に家庭を築いてきた」・「有名人の方の母親として立派にその人を育て上げてきた」という宣伝が必要だったのかと思います。ですからその人本人全てを表せるものではありません。あくまでも営業的な目的でその人の一部分を切り抜いたという見せ方だけかとも思います。

私達それぞれの在り方はその人が歩んでいく人生の中でいろんな関係性もありますし、いろんな立場があるものです。人と人とが向き合った場合にも実はそれぞれに在り方は一人ずつ自ずと変わっていくのです。いろいろなご縁やつながりや関係性の中で個人個人が存在しています。

自分であり・子であり・親であり・孫であり・兄や姉や弟や妹であり・友人であり・同僚先輩後輩であり・様々な仕事人であり・労働者であり・消費者であり・様々な主義や主張を持った人であり・様々な信念や信仰を持った人であり・様々な趣味や技術を持った人であり・ある面では有名な人であり・全く無名の人であり・日本人でありアジア人であり外国人であり・自然界の一部であり・現在生きる人であり・これからの未来に過去の人となり等々様々な自分の姿や在り様が変幻自在に存在していて今も常に移り変わりゆく存在なのかと思います。どれか一つだけが自分であるということはありません。

ですからあなたが喪失感を感じてしまうというのは社会の中での一部分の見え方だけではないでしょうか。自ずと大切な関係性の中で人はそれぞれに生き・生かされています。それは人であっても他の生きものやものごとであってもです。

「私のアイデンティティはこれだ」ということもあるかとは思いますが、それだけにとらわれることなくもっと広い視野を持って生きてみてもいいのではないかと思います。

あなたがこれからも素晴らしいご縁の中で心から健やかにご成長なさっていかれます様に、豊かに充実したご自分の人生を皆さんと一緒に生き抜いていかれます様に切に祈っています。

2022年9月30日 13:45
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有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

コメントがだいぶ遅くなって申し訳ございません。ありがとうございました。

「虚無感・空虚・毎日が虚しい」問答一覧

寂しさや虚しさに向き合うこと

こんばんは。 最近、訳もなく寂しさや虚しさを感じることが増え、何故なんだろうと思い質問しました。 例えば誰かと一緒にいる時、楽しいはずなのに「寂しいな」と感じてしまったり、目標に向かって頑張っている時、ふと「虚しいな」と感じてしまったりします。 昔からそういう感覚はありましたが、最近になってそれが顕著になり、どうにも気力が続かない日々が増えたように思います。 私は26歳の独り身で、ある程度社会人生活にも慣れ、周りが結婚や出産といった新たなライフステージを進んでいく年代になっているため、漠然と将来に不安があるのだろうなとは思います。 私は今まで恋人がいたこともなく、結婚に対してあまり良いイメージを抱いていないため、誰かと人生を歩む未来を上手く想像できません。これから仮に一人で生きていくとなっても、自分が納得しているなら別にそれでいいと思っていました。 けれど、あと何十年も、自分が生きるためだけに汗水垂らして必死になって働いて、果たして私はこの寂しさや虚しさに耐えられるのだろうかと不安になります。 よく「自分のためではなくて、他人のために行動しなさい」と言われますよね。 私自身も、誰かの役に立てた時、心から嬉しいし、満たされていると感じられる気がします。 だから、というと押し付けがましいですが、周りの人たちには感謝していますし、優しくしてもらった分私もたくさん返していきたいと思っています。 義務感からではなく、本当に大切にしたいと思える人に、そう接しているつもりです。 それでも「虚しい」と感じるのは無意識に見返りを求めているからでしょうか。 「寂しい」と感じるのは、やっぱり一人に耐えられなくて、誰かを羨んでいるからでしょうか。 私は、結局自分のことばかり考えている利己的な人間なのでしょう。そんな自分に辟易とします。 いつか自分を好きになりたいと思いながら日々を生きています。自分の良心に従って、自分の気持ちに素直に生きようと考えて日々を生きています。 そしていつか、誰かを愛することができたら、私は満たされるのかもしれないとも思います。相手がいるからどう、という訳でもないかと思いますが。 こういう「寂しさ」や「虚しさ」はきっと死ぬまで付き纏ってくると思うのですが、お坊さんたちはどのような心構えで向き合ってらっしゃるのか、ご意見をいただきたいなと思います。

有り難し有り難し 13
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虚無感に苛まれています。

3年前に母が乳がんであることが分かりました。 でも母は告知されたのにも関わらず一人息子の私に何も告げず職場にもずっと隠していました。 看護師という職業柄なのか父が癌で亡くなっていて壮絶な闘病生活をみてるからなのか分かりませんが自分一人で抱え込み誰にも癌のことは言いませんでした。 そして2年前から出血が酷くなり大きな病院での診察をきっかけに僕に乳がんであることを打ち明けてその時点で私は知りました。 僕は必死で母の通院や入院の際の送り迎えや書類関係の手続きを、一人で行ってきました。何とか母に生きてほしいという一心で仕事も出来ず辛かったですが必死で頑張ってきました。 ただ、母からは黙っていたことへの申し訳ない気持ちや送迎や書類関係の手続き等に対して「ありがとう」や「ごめんなさい」、「悪いね」ということを言われたことが無く、「親の介護をするのは当たり前だ」と常々言ってきたので不遜な態度でいつも我儘をずっと言ってきて、何とかそれに答える気持ちで対応していました。 でも母は昨年の2月にお隣に住む方から借金をしていることを知りました。生活費や治療費が足りないと泣きついたそうです。 それをお隣さんから聞いた時、今まで母の為に一生懸命看病してきて自分なりに頑張ってきたのに猛烈に裏切られた気持ちになり、家を飛び出してその当時お付き合いしていた女性宅に転がり込みました。 母と大好きで10年連れ添った愛犬を実家に残して。 その4か月後母は入院先の病院でたった一人で亡くなりました。葬儀もせず無縁仏の状態で役所に遺骨は保管されています。 愛犬もすごく大事にしていたのに、母が最後に入院する際どなたか分かりませんが譲渡したと病院職員から聞いています。 今、スマホのカメラロールを見ると愛犬が出てくるたびに悲しく虚しい気持ちになって胸が張り裂けそうです。 愛犬はどこで何をしているのか。また今生きていれば14歳になるので元気なのだろうか。もしかして亡くなっているのではないだろうか。 母と愛犬を見捨てる形で家を出てきて、もう1年半ほど経ちますがずっと心の片隅にモヤモヤしたものが残っています。 12月からは地元を完全に離れて東京に行きます。地元にいると上記のことを含めて嫌な思い出が蘇るのです。 本当に虚しく寂しい気持ちが心を蝕んでいきます。

有り難し有り難し 20
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学会で虚しさ、疲れ。全てが嫌に。

いつもお世話になっております。 私は今、とある学会に出るために、はるばる関東から、北国の地に来ております。今日はその学会で発表したり、色んな先生たちとお会いしました。ただそれだけのことですが、どっと疲れており、悲しい気分になっているので、お助けを求めて、ここにまいりました。 私も皆んなも、好きで始めた研究なのに、そこは純粋に学問をする場というより、人脈を広げたり、根回しする場になっていると感じました。表面的な会話に絶望していますし、なんか自分はこういう感じに人と関わるのは無理だと思いました。他の人たちが研究者同士、ワイワイやっている中、私はひとりぼっちで疎外感を感じました。発表を聞いてくれた方々には感謝、学会の準備をしてくれた方々にも感謝ですが、なぜか変な満たされなさと疲れがあります。 なぜ学会のことだけで、と思うかもしれませんが、学会が終わった後、なんかもう色々な社会的なことが嫌になってしまい、誰とも会いたくないし、これ以上何かを目指して生きるのは無理だ、という気分になっています。本当は、自分のキャリアや家族の問題でやらなきゃいけないこと、考えなきゃいけないことがたくさんあるのに、もう無理だ、と人生に降参したくなっております。 明日は学会2日目なのですが、もう帰りたくなってしまいました。もう誰にも会いたくない、もうこの感じ無理だわ、と思います。カフェで1人で本でも読んでた方が、よっぽど豊かな時間になりそうです。なんで突然こんな気分になるのか、戸惑っています。こんな私に、お言葉いただけたら嬉しいです。

有り難し有り難し 25
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大勢に流されるだけの無力な塵

「何をしたところで、自分の命など他人次第でしかない」「結局は圧倒的な力で簡単に殺される」という事実に無力感を抱いています。 官僚もメディアも利益重視なので日本はもう沈むだけですし、今は救命ボートに誰を乗せるか、誰を蹴落とすかの時代です。だから、生き物が元々持っている「価値の無いものへの差別的感情」が抑えきれません。労働が「ただの苦役」でしかないから誰もが最低限の仕事しかできず、終わりゆくこの国を救う革新的な方法を誰も編み出せません。私を含め、誰もが、「自分が被害者だから救って欲しい」としか言えないからです。 現実を見れば見るほど「ものすごいスピードで進む、いつ先がなくなるかわからない、けれど先がなくなることだけは確定しているトロッコに乗せられているだけ」という感覚が強くなるため、自分の生活に集中したくなります。しかし、それでは逃げるタイミングが見極められずに沈んでしまいそうで恐ろしくもあります。 私よりもずっと賢くて優秀なはずのたくさんの人が「もう日本は終わりだ」「戦争は避けられない」と言っていて、誰も解決策を見出せていないのだからきっとそうなのでしょう。私は、他者を害しなければ生存を保つことができない「生き物」そのものに強い不信感を抱いているため、どれほど恵まれようと、一生働かなくてもいい程の富を持っていようと、漠然とした絶望感を抱き続けるのだと思います。そして、現代はその絶望感を煽る事実ばかりが蔓延する時代です。 頑張らなければ生きられないのに、頑張ったところで生きられるとも限らない。結局、他人に対して「自分を生かす価値」を証明できるかどうか。そして、それさえ押し流す国家間戦争や自然の強大な力だってある。「殺される」という気持ちばかりが強くなっています。 「生きない」ことが最善で、全生命が同時に安楽に死滅するのが最も賢く幸せだという思いは10年近く変わってはいませんし、きっと一生変わりはしません。私自身がまともに働いて生きるという当然のことができない人間なので、子供を持つつもりは一切ありません。自分に安楽な老後があるとは一切思っていません。ただ、希望のないこの世界が続いていくのがどうしても腹立たしくて許せなくて仕方ありません。死んでもどうせまた生存競争の中に放り込まれる。やがては太陽と共に死滅する。そこらの塵でしかない自分を惜しんでしまうのが嫌なのかも。

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毎日が虚しい、悲しい、もうやだ

長文になりますが読んでいただけると嬉しいです。 のこと申します。今年21になった女です。 去年結婚し、現在は失業保険を貰いながら規定内でパートをしています。実質専業主婦みたいなものですが、夏頃までにはと、正社員での就職を目指しています。 最近無性に孤独でたまりません。 旦那と結婚式の話をした時、自分だけ呼べる人が誰もいないことに気づきゾッとしました。 10代半ばから今まで、苦しいことだらけでした。いじめ、不登校、大量のアームカット、援交、風俗、中絶、家庭内不和、と人には絶対言えないようなことをたくさん経験してきました。 逃げるように結婚し、今はだいぶ落ち着きましたがやはり頻繁に苦しくなります。過去の後悔、今後の不安、周囲への申し訳なさ、相談相手のいない孤独から押しつぶされそうです。 だけど、今まで起きた苦しいこと全て、自己責任です。 もともと友達もたくさんいて、家庭も裕福で、幸せだったはずなのに、何が気に食わなかったのか、自分でそれを壊してしまいました。 学歴も高卒で、職歴も大したものではなく、友達とも全員縁が切れている、こんな状況にしたのは全部自分です。 誰にされたでもなく、全て自分でやりました。 癖がついてしまったのか、今でもわたしは自分を不幸にする選択をしてしまう時があります。頭ではわかっているのですが、無意識に、そうしてしまうのです。 苦しいです。 やりたいことも頻繁に変化し、自分が何をしたいのか全くわかりません。 自分がどこへ向かっていくのか不安でたまりません。死んだ後地獄に落ちても構いませんが、せめて生きている間は幸せでいたいです。 わたしは一体どう生きたらよいのでしょうか?このまま生きていくと廃人になる気がしてなりません。 私なんかと結婚してくれた旦那には申し訳ないです。 消えてしまいたいです。 支離滅裂な文章でごめんなさい。

有り難し有り難し 5
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ