虚しさから解放されたい
先日書店にて、育児書で有名なとある著者の本を目にし、その方のプロフィールを拝見したところ、「〜大学教授の妻、〜の息子の母」と言った形で紹介されていました。
結婚や育児のために、仕事社会を退いた人間はこの先の人生ずっと、「誰かの何か」扱いなのでしょうか?誰かにとっては特別で誇り高いことですが、その誰かの何かの立場からですと、アイデンティティロスです。「誰かのため」とは無縁の、自分が歩んできた過去、その中の一つ一つの選択が無意味なモノに思え、虚しいです(あくまで私個人の見解ですが)。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「私」って何なのでしょう
ご相談拝読しました。
ある本の著者プロフィールを通して、あるいはご自身の現状を通して、アイデンティティ・・・つまりは、「私とは何か」という人間の根本問題について、喪失感を感じ、空しさと不安に苛まれていらっしゃるのですね。
それはとても大切な課題であると思います。簡単な答えを出さずに、大切に抱えて歩んでいきましょう。
その著者のプロフィールが「誰かの何か」という書き方であったことに違和感を覚えたとのこと。ごもっともであると思います。では、例えば育児専門家とか本人についての形容であったならば違和感はなかったのかどうか。
それはつまり、あなたの感じている虚しさが、これから女性の社会進出やそれに伴う世間の理解や価値観の変容など、周りの影響によって埋まり得るものなのか、それともそうではなく実は自分自身の課題であるのかという問題です。
私とは一体何なのでしょう?
大学教授という肩書きも退任したら、社長という肩書きも退社したら消えていきます。元○○としたとしても何だか少し空しい気もします。それらの肩書きが自分自身を表していないわけではないですが、どれも失われていくものである限り、自分そのものを表してはいないからです。
仏教では私というものを関係性で考えます。母の私、妻の私、親の私、お店のお客さんの私、自然の消費者の私・・・・どれも私であるけれども私そのものではない。
どこかに本当の私がいたならそうではない私は嘘の私になってしまう。でもそうではない。どれも私の一部・一面ではあるけれど全部ではない。
結局、私の視点で私を捉えようとしても、見る私と見られえる私の分離が起こり、常に見られる私(私がとらえた一部の私)の背景に見る私(認識できない私)が残ります。
その私全体を包んで「汝」と呼びかける存在を仏といいます。私まるごとを救いたいと願うのが仏様なのです。
あらゆる関係性によって成立せしめられる私。その一つの関係性をあらわす肩書きは私そのものではない。でもそれも一つの私なのだとして、ある種のわかりやすさや世間的価値観を受け入れられることも大事なのかも知れません。
でも、もっと大事なのはあなたが今お抱えの感覚を大切に掘り下げ続けることだと思います。
結局誰かや何かによって私を満たそうとしても、満たしきれないものがあるのでしょう。答えにならずごめんなさい。
広げて視てみると
拝読させて頂きました。
あなたが誰かの為の私と思った時に虚しさを感じておられることを読ませて頂きました。あなたのお気持ちを心よりお察しします。
その著者のプロフィールを見てその様に印象を持たれたのかと思います。その著作や著者の方については全く分からないですけれど、その書籍が「育児本」として販売している以上売り上げを上げなければなりません。ですからその著者が「有名な大学教授の妻として立派に家庭を築いてきた」・「有名人の方の母親として立派にその人を育て上げてきた」という宣伝が必要だったのかと思います。ですからその人本人全てを表せるものではありません。あくまでも営業的な目的でその人の一部分を切り抜いたという見せ方だけかとも思います。
私達それぞれの在り方はその人が歩んでいく人生の中でいろんな関係性もありますし、いろんな立場があるものです。人と人とが向き合った場合にも実はそれぞれに在り方は一人ずつ自ずと変わっていくのです。いろいろなご縁やつながりや関係性の中で個人個人が存在しています。
自分であり・子であり・親であり・孫であり・兄や姉や弟や妹であり・友人であり・同僚先輩後輩であり・様々な仕事人であり・労働者であり・消費者であり・様々な主義や主張を持った人であり・様々な信念や信仰を持った人であり・様々な趣味や技術を持った人であり・ある面では有名な人であり・全く無名の人であり・日本人でありアジア人であり外国人であり・自然界の一部であり・現在生きる人であり・これからの未来に過去の人となり等々様々な自分の姿や在り様が変幻自在に存在していて今も常に移り変わりゆく存在なのかと思います。どれか一つだけが自分であるということはありません。
ですからあなたが喪失感を感じてしまうというのは社会の中での一部分の見え方だけではないでしょうか。自ずと大切な関係性の中で人はそれぞれに生き・生かされています。それは人であっても他の生きものやものごとであってもです。
「私のアイデンティティはこれだ」ということもあるかとは思いますが、それだけにとらわれることなくもっと広い視野を持って生きてみてもいいのではないかと思います。
あなたがこれからも素晴らしいご縁の中で心から健やかにご成長なさっていかれます様に、豊かに充実したご自分の人生を皆さんと一緒に生き抜いていかれます様に切に祈っています。
質問者からのお礼
コメントがだいぶ遅くなって申し訳ございません。ありがとうございました。