何かに執着することができません。
友好関係や持ち物、仕事、趣味、様々な物事に執着心がないことが悩みです。
先日、友人間の諍いに巻き込まれ、片方の方とは実質絶縁のような形に終わってしまいました。どちらの方ともかなり親しくしていたと思うのですが、自分が当事者ということでもなかったこともありますが、結果的に「残念で悲しい」と思うだけだったのがショックで相談しています。
関連で考えてみると、ほかにも物やお金であればなくなっても死ぬほどでなければ構わないと感じますし、趣味や仕事も出来ない状況になれば別のものに手をつけるだけです。
褒められたり認められたいと思うこともないし、感謝されても嬉しくありません。(もちろん皆に厳しくされ続けたいという意味ではないのですが)
いまの自分が客観的に見ても、成功者とは言えないほどでもかなり恵まれているという自覚はあります。
だから、何かを多少失っても痛くないだけでは?という気はするのですが、そうだとしても全てを失った時に何を自分の基準に持てばいいのかわからない事は怖いです。
このままでは自分が動けなくなるなど、致命的なほど大きく状況が変わるまで、何も変わらないような気がしています。
執着心など持たないほうがいいというのはわかっているのですが、一生懸命に生きている友人や同僚たちを見ているとここまで無気力・無頓着でいいのかと不安になってしまいますし、これまで抱いてきた好きなひとやものへの思いが実は大したことないのでは?という疑念があり、またそれらに真摯に向き合えていなかったのではと申し訳ない気持ちでいっぱいです。
心がけてはいるつもりでも絶対に自分の無関心な態度が誰かを傷つけていると思うため、もっと自分の思いや態度、本当に拘るべきものをはっきりとさせたいと思っています。
そうするためにも何かへの思いや気力を手に入れていきたい。そう思いこれまでの短い生涯を反芻しているのですが、特にこれが良かった、悪かった、など思い当たることもありません。
個人的にはせめて何か一つでも執着できるものがあればやかりやすいのにと思うのですが、実際のところこれからどうしていったらいいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
いろんな世界を見ることで、記憶に残るほどの体験をしていけたら
あなたの質問を読ませていただきながら、そういう捉え方もあるのだなと思いました。
「執着」が、どのように人に影響を与え揺さぶるのか。
強い執着が無いと、無気力・無頓着となるのか。
あなたは、打ち込める何か、感情を剥き出しにしてまで、突き動かす自分に出会いたいのかなと思います。
私の年齢になれば、強い執着は、自分を追い込み苦しめてしまうもの。これでいい、ちょうどいいを大切にしていきたい。そんな心の余裕を持ちながら、目の前の縁に感謝出来たら〜と、それが生きやすいさでもあると感じますが。それは、執着による苦悩を経験してきたから、行き着く生き方なのでしょうね。
あなたは、どんな感情が待っていようと、何かに向き合ってみたい、執着するほどのものに出会っていきたいのですよね。
執着は、特に、人との関わりから強くなることがあります。自分だけでない、相手からの影響で気持ちが掻き乱されたり、意欲や熱意を掻き立てられたりね。いろんな人や世界を見ることで、自分に波が起きるからです。あなたにも波が起きていると思いますよ。ただ、今は荒れたり流されたりするほどでもない波なのでしょう。
今までだって出会ってきたけれど、自分が考えるほどの波ではなくて、どこかで納得出来てきた。それは執着がないわけではなく、燃やすほどの執着では無かっただけ。
いろんな世界を見ることで、記憶に残るほどの体験をしていけたらいいですね。
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
まだ見ぬ物を探し続け、これだと思える時を待つしかないようですね。今後もまた様々なものと関わり、良縁を見つけていこうかと思います。
質問の時点で、単純に否定されたり諦める事はしたくないなと思っていたため、今後につながるような回答がいただけで嬉しいです。