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自分の中の母親に似ている部分が苦しい

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有り難し有り難し 8

いわゆる毒親と言われるであろう自分の母親に自分が似ていてとても辛いです。
ふとした自分の言動が母親に似ていると自分で分かります。顔も似ている部分があり、そこは整形しました。こんなことで整形したと現実で言ったら、相当ヤバいやつと思われるでしょう笑 分かってくれる人なんてそういないと思ってます、でもいくら払ってでも母親から遠ざかれるならそうしたかったです。外見も中身も。

中身で言うと、他人の意見をすぐ否定する、自分の否を認めない、めんどくさがり屋、他人といい関係を築くのが下手、外では他人の顔色を伺いイエスマン、実力に見合わないプライド。
こんなところが似ています。母親が毒であると気が付いてから治そう治そうと思っても、いざと言う時、自分がミスをした時や凹んでいるときお酒を飲んでいるときなど、気を抜くと自分の中の母親似が出てきます。
最近も仕事のストレスが多く、ふと自分のことを母親のようだと思うことがあります。ほんとにほんとに嫌だし辛いし、こんな自分辞めたいです。
根の部分といいますか、本性といいますか、どうやったら変えられますか。

2022年10月3日 22:56

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

プラゴミで衣服を。ゴミでエネルギー。困難も自己の向上力に⤴

人間には足がある。
上手に用いればとても速く走れる。急な山道も乗り越える。武術を身に着けることもできます。
人間には目がある。
目は見るだけではない。見つめる力がある。学ぶ力、見出す力、発見する力。そのように転ずるのが人間の優れた知性というものです。
悪い脳内情報に騙されない真実を見る眼。親を嫌う前の清浄なる眼。広い心で寛容・容赦する眼。慈悲の眼あり。仏の眼、観音眼を持つべし。
人間には手がある。心がある。
何もしない人もあれば、良いことに用いる人、人が困る悪いことに用いる人もいる。
悪いことを思った結果、どうか。
アナタは苦しい。
苦しいのは何故か。
人間としてあるべき姿から外れると人は苦しいのです。それを悪いことという。
心もハサミもネットもお金も良くも悪くも用い方次第。
だからその活用法を学んで今日から一切の人を救うために用いればいい。
そして同時に自分も救うのである。
自分だけ救おうとする輩が多いから世の中は腐るから人も救うのがこの世のあるべき法則だからです。
よって、いつかは、過去において辛い状況で生きてきた結果、たまたま、悪縁によってそうなってしまった可哀そうな母親も救ってあげればいいのである。
そのぐらいの度量をあなたが持てばあなたも苦しみから解放されるからである。
人を嫌う。親を嫌う。何かに嫌悪感を感じるのであれば!その負の心がまたあなたを苦しめる悪の作用となる。ならば、その警戒心、防衛心、敏感な感性を上手に用いて、自分が嫌な事は絶対に嫌だからそれを回避するように他人にも不快な思いをさせないような作法にかなった適切な発動を心がければいいのである。そのように転ずるのである。

他人の意見をすぐ否定する→だったら、それより高く良い意見を提案すればいい。
自分の否を認めない→人にそれをやられたら自分も嫌なはずです。謙虚さ黒帯を目指して精進。
めんどくさがり屋→好きなことはやるはずでしょう?好きなことやる時の心の発動に学ぶ。
他人といい関係を築くのが下手→自分らしさを尊重したいだけ。快適な人とだけ関わる。
外では他人の顔色を伺いイエスマン→調和する気持ちはある。その安全性を保つ心のクオリティを高める。
実力に見合わないプライド→理想と現実を一致させるように実力も徐々に身に着けていく。プライドはそのための道しるべにすればよい。
一切善導。これを菩提心となづく。

2022年10月4日 12:03
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
感情も使い用、一枚上手二枚上手に生きるのは簡単なことではないとひしひしと感じていますがそうなれるよう心掛けます。
何度も回答読ませてもらいます。
ありがとうございました。

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