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なぜ人は死ぬのでしょうか

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私はいま人の命を守る仕事をしているのですが、身近な人が希死念慮を持っていたり、最近自死したりということがあり、そんな世の中で命を救うことに意味があるのかと感じて悩んでいます。

仏教ではあるタイミングである人が死ぬこと(自死にしろ、災害にしろ)はどのような理由で説明されるのでしょうか?

2022年10月16日 16:17

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人の命がどうとかというより…

たった「ひと呼吸」ができなくても人は死んでしまう。
たった「ひと思い」の動かし方でも人は死んでしまおうとすら思ってしまう。
私は自然の多い寺に生まれて毎日のように自然相手に奮闘中です。
山寺、木々の多い寺は小さなジャングル。
大気は水の無い海空。そこに様々な魚の形をしていない生命が泳いでいます。
菌、微生物、タヌキ、ニワトリ、カラス、ハト、キジ、🐍、ミミズ、ヒル、Gブリ。
厳密には自然ではなく人間を相手にしています。
本当は山は人が手を加えなくてもいいのに寺だと人の歩くところに草や葉っぱがモサモサだとそれを厭う人がいるので庭を掃く。木も大きくなる。人の歩くところに巨大枝が落ちてきたりすると大変。放っておいても枝や葉っぱは落ちてくる。落ちてくれるな、とお願いしても落ちていく。人の意思とは別。
人もそう。生物・生命もそう。生きてほしい、死んでくれるなと言っても死んでしまう。反対に自分の意志で死のうとしたのに死ねなかった女性もいます。飛び降り自殺で結局、死ねなかったので半身不随で今も生きておられる。そんな人もいる。飼っていたメダカが水槽に入れた途端、死んでしまった。生命の多様化・多様性はキレイごとではなく混ぜるな危険。他のメダカと一緒になったら合わない保有菌で死んでしまう。
私も毎日のように自然界の生死をみながら木を切ったり、葉っぱを片付けている中で、自然を相手にするのでもなく人を相手にするのでもなく、わが身我がことの映し出されのディスプレイを相手にしているということがわかりました。
たとえば時・現象・事実・作用というものは人の考えや願いを超えている。
しんだ。うまれた。
いきしてる。
いつか死ぬ。
いつか死ぬと思い、考えた。
知人が死にたいという。
何とかしてやりたい。
それを思うのも個人のアタマ。
命一つも誰とも変えられない。
遊びや仕事の価値、出遭い、命、生きる事の価値も人によって見いだせていたり、誤解していたり、さまざま。
ですが、それでも命の本当の声は違う。生きようとしている。
だから、仏教では菩提心を説く。
菩提心とは全生命がより良い方向へ進もうとしている一大事実。人間の意思とはかけ離れた尊いエネルギーのことです。病気だって治そう、治したいという意思が生命にはある。その声をあなたも聞けるようになるといいでしょう。
くじけずに、多くの人を救ってあげてください。

2022年10月17日 2:26
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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

寿命と体温と識(こころ)が離れたら死ぬ

寿命と体温と識が離れたら死が成立します。
たとえば、指先の細胞から順番に死んでいくときは、指先から寿命・体温・こころが離れます。
体温は、細胞が死ねば当然エネルギー切れになりますね。
こころ・意識も、細胞が死ねば感覚も無くなるでしょうね。
では、寿命とは何なのでしょうか?
私は、寿命とは、その生命を生かそうとするご縁(直線的・間接的な条件)の総称だと思います。
たとえば入院患者の点滴や医療スタッフの存在も、ご縁(寿命)の一部です。
いずれにせよ諸行無常。
全ては変化しますから、ご縁(寿命)もいつか切れますね。

2022年10月17日 12:57
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

お答えいただきありがとうございました。

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