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婦人科の検査が怖い

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有り難し有り難し 10

お世話になっております。
先週に引き続き、子どもっぽい相談になりますが、よろしくお願い致します。
婦人科系で心配な症状があり、今日これから診察に行くのですが、婦人科で本格的な検査をするのが初めてで、ものすごく、恐怖に近い緊張で、どうにかなりそうです。

お恥ずかしい話ですが私には恐怖症やトラウマがあり、この歳になっても男性経験がありません。これまで受診したときは先生が配慮してくれて、負担の少ない検査にしてくれていたのですが、今回は症状的に、おそらくちゃんとした検査になりそうです。

深呼吸や瞑想などしていますが、やはり怖さは戻ってきます。しかし大切な健康に関わることですので、なるべく穏やかな気持ちで治療したいです。

異常な恐怖心を落ち着かせる知恵がありましたら、ぜひ教えて下さい。

2022年10月17日 7:14

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

見知らぬ人に禁断ZONEを容易におまかせしない

まずは女性が主治医の産婦人科・婦人科に行かれることをお勧めします。
あと、女性の微細な不安・心情をきちんと理解してくださる先生を事前に調べて出居る限り安心できる先生を選びましょう。
うちの近所には評判の悪い婦人科がございまして。手術で植物人間になってしまった人もいます。うちの子供も顔を傷つけられました。
近所だからいいだろうと、と、よくリサーチしなかった私が悪かったのですが、本当に選択したことを誤ったと後悔しております。今では問題視されている葉酸の投与もされ、生まれた直後に顔に傷があるので、どういうことか?と申し出ましたら抗生剤を投与されました。いま、その子は発達障害で支援級に通っております。生まれたばかりですし、眼のすぐ下でした。吸収力の高い子供ですからその時に何を投与されたか存じ上げませんが、子供が発達障害になってしまったのもその両面が原因ではないかとも思っております。その事件が起きてから院長に言ってももう遅いのです。証拠の動画を取っておきましたが、仮にその医院の院長や担当医を問題視してもわが子の顔の傷や発達障害はもう治らないのです。医者選びは本当に真剣に選ぶことです。
私の言うことも信じなくて構いません。
医者も坊主もちゃんと真剣に選んだ方がいいです。
自分にとって本当に大丈夫で安全だという確信、確証、直感。
医者で偉い目に遭った経験は沢山あります。
最近では手の手術をして包帯を外す日に別の先生で乱暴に外して再出血。別の先生が当たるって何よ?と思いました。血が出て、カルテを見直して「あれ?」と変な沈黙があり、包帯外すのなんざ自分でもできるのですが乱暴に外して出血。謝りもしない。
昭和の感性を大事になさってください。
多様性・多様化を前面に押し出されておかしな人たちが沢山いますが、何でもかんでも受け入れてしまうことは多用性でも多様化でもなく魑魅魍魎跳梁跋扈と変わらないというぐらいの警戒心を持ってください。
人にはそれぞれ聖域・サンクチュアリがあります。
というわけで、本当に信頼できる先生でなければ、誰でもいいというようなことはやめた方がいいです。
あ、また、おもいだしました。以下は私の愚痴ですが、胃カメラの先生でひどいの先生にあたりましてねぇ。そりゃぁもう、うげげのおげげののたうち回るような(以下略)

2022年10月17日 12:15
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下先生
ありがとうございます、無事終わりました。信頼できる先生で良かったです。
胃カメラの方が怖いかもしれないですね。
何事も落ち着いて、大人として頑張ります。

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