hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

物を大切にできない

回答数回答 2
有り難し有り難し 25

私はガサツな性格なためか、物を大切にできません。
傘をすぐになくしたり新しい服に汚れを付けたり、スマホをうっかり落としたりお皿にヒビを入れたり等々。

身の回りの物事を大切にし、感謝して生きるべきと頭の中では分かっていますが、ついうっかりしてしまいます。身の回りのものだけでなく、人に対しても「うっかり」をして傷つけたりしていないかと不安に感じています。

借り物や共用品などは丁寧に扱う事が出来るのですが、これはただ「借りたものを壊してしまうと面倒」と言う保身によるもので、正しい姿とは思えません。

どうしたら物を大切にし、丁寧に生きる事ができますでしょうか。
また、物を大切にする事と、執着する事の違いは何でしょうか。

浅短な悩みで申し訳ございませんが、ご回答いただけると幸いです。

2022年10月21日 12:05

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

物を減らすと集中力がにあるものにだけ向かう

ごちゃごちゃした環境を視覚からなくしましょう。
ごちゃごちゃしたテーブル、部屋、引き出し、キッチン、寝室、居間、玄関、庭…。
モノが多いとやることが多くなり、意識が拡散しやすいです。
すっきりしません。Σ(・□・;)💦
禅の庭師になったつもりで物を減らすことです。
ホテルや旅館に泊まると必要最低限の物しかありません。
意識は自然に今あることに集中します。
自分の家もそれに準じたカタチにすれば毎日が旅行気分です。
どんどんハードオフなりメルカリなりオークションなりバザーなりに売りましょう。高額で売らなくていいのです。手放す。
それが目的です。
布施として世界の欲しい方々、必要としている方々に手渡すつもりで。自分の心の向上のために手放す。
あなたは今持っているもので使っていないものは必要としていません。
モノが多いと阿修羅像、アシュラマンのように意識の顔が増える。
あれもやらなきゃこれもやらなきゃという心理になる。
手が多く顔があちこちに向かう。
アレはそういう心理を描写したものといえましょう。
その結果、ものに対する扱いが雑になるのです。
もったいない精神、モノを捨てられない精神は時にものに縛られるようになる。
するとやることが多くなり、やり残しも増える。
「放てば手に満てり」
「もの持たぬたもとや涼し 夕涼み」
「何もなき庭は掃除せんとするにも片付けるものも無し」
「裏庭には二羽庭には二羽ニワトリがいるためにうちの両庭フンだらけ」
私は作業着は作務衣ですが、作務衣はキレイだと役に立たない。汚さないようにしようという心理が生じて作業がはかどらない。
よって私の作業着はボロボロです。
その分、身軽で行動に集中しやすく万能な働きになります。
あれもやらなきゃこれもやらなきゃ、で、モノの扱いが雑になるようでしたら、ものの方を減らす。脳の働きの当然の道理にしたがえばイイだけです。
意識の散乱を減らせばよいのです。

2022年10月21日 21:50
{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

落ち着いて向き合うこと

拝読させて頂きました。
あなたがそう思われるのもとてもわかる様に感じます。私もその様なところがありますね。あなたのお気持ちを心よりお察しします。

ものも人も大事にできないのはそれだけ自分の心にも身体にも時間にも余裕がないのではないかと思います。いつも何かに追い立てられていたり、あれもこれもと余計なことまで考えていて注意力散漫になっているのではないでしょうか。

本来ならば一つ一つのものごとや一人一人に対しても落ち着いて誠意をもってお向き合いなさることが大事だと思います。

ですからできれば毎日の生活の中で落ち着いて穏やかに生きることを心がけてみて下さいね。そしてあなたの目の前にあるものごとや人に対してゆっくりと丁寧に向き合っていきましょう。そうすることで今まで見えなかったことや気づかなかったことにも気がついて新たな発見や大切なものごとを再確認することにつながっていくと思います。

あなたも必ず誰かの大切な人ですし、人との付きあいでも大切にしてもらうことでより毎日を気持ちよく生きることができるでしょうからね。

あなたが毎日を穏やかに落ち着いて一つ一つのことにお向き合いなさり、皆様とお互いを大切に尊敬し尊重なさりながらお健やかにご成長なさっていかれます様に、心から豊かに充実した人生を生きていかれます様にと切に祈っております。

2022年10月21日 15:52
{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。

頂いたご回答にハッとさせられ、何度も拝読させて頂いております。
私は、スマホ中毒の気があり、最近ではなるべくスマホを手元に置かないようにしています。
しかし、スマホを触っていない時間も(主にスマホで見た情報に対して)考えごとをしながら何かをしている事が多いように思います。特に、自分ではどうしようもない悪いニュースを目にするとその事に心を引きずられたまま日々を送るような癖があります。
そのようなどうしようもない考え事をしながらでは「一つ一つのものごとや一人一人に対しても落ち着いて誠意をもって付き合う」
と言う事が出来ているはずもありません。

私は、自分では色々考えていたつもりでも「ぼーっと生きている」状態なのだと思います。

ご回答を頂いてから「一つ一つのものごとや一人一人に対しても落ち着いて誠意をもって付き合う」を意識していますが、なかなか難しいと感じています。この気づきが薄れてしまわないように何度もご回答を読み直すようにして、習慣化できるようにしたいです。
また、ものを手放す事も「要る要らない」に誠意を持って向き合うと言う事かと思いますので、身の回り、そして頭の中の断捨離を進めたいと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ