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自宅の神棚について

回答数回答 1
有り難し有り難し 6

海上自○官です。今は陸上部隊なので船には乗っていません。私のアパートには神棚と寺の御札があります。陸にいて、独身なので毎日榊と水玉の水を交換し、週一のペースで米と酒と塩も交換して神仏と御先祖様に感謝してお祀りしています。ただこれからまた船に戻るので今のような丁重なお祀りはできなくなります。榊も造花になってしまいます。お供え物も無い日ができます。更に結婚した場合も今のようにはいかないと考えます。手を合わせるぐらいで終わりかもしれません。このような質素なお祀りで罰が当たらないか心配です。ご回答よろしくお願いします。

2022年10月25日 17:22

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

神仏の指さす方向は人間界の悪意や私心に屈せぬこの上ない清浄心

日々、わたしたち日本国民の安全のために世間の誹謗中傷やあらぬ誤解を受けながらも、国防最前線の場で身を砕いて御尽力を頂きまして、まことにありがとうございます。本当に感謝申しあげます。今日たまたま、あなたと同じ職務の方の御葬儀がありました。ご高齢の方でしたが、その方の娘さんは小さい頃、今日亡くなられた親御さんの職務の関係で差別をされたことも実際にあったらしいです。
戦後、日本の力を弱める為に踏みつぶす勢力に心理誘導されてしまった人たちはまだまだ多いですね。公にはなりませんがそれも一種の巧妙な差別であると感じております。
いつの時代も世界には尊敬されない人間性の人が権力をもって威張り散らす哀しい光景があります。
「まもる」こと。
国防の大切さは世界の戦乱が証明済みです。
そもそも神仏の精神も人間が本当に守護すべきことを守護・保持する精神の象徴です。多様性や寛容の名の下で多種多様な人の道外れなことまで許されてはいけないと思います。
国境や年齢、性別、主義思想を超えて「万人が聡明で笑顔になれる人間精神」こそが神仏の「この道を行きなさい」と指さす清浄なる方向です。
私も職業差別やいじめを受けたことがあります。僧侶の世界でも業界病みも経験しました。辛い経験も沢山あります。ですが悪意に屈せず生きる事です。
正義の心や裁く心、あるいは人の是非善悪を見定める心を強く持ちすぎると、それがために自分や相手を許せないような心理が生まれます。高い理想や理念を持ち過ぎて縛られないようにしましょう。所詮は人間のやることですから。可愛いもんです、というくらいの立場で過ごしましょう。差別やヘイトをする人たちのコンプレックスをも浄化してあげるぐらいの気持ちでいるとよいでしょう。一線退いたところから冷静に見つめる目を見失ってはいけません。周りの方々の悪意に圧し潰されそうなときは、神仏の法衣をまとうつもりで毒素に屈しないように強い心と柔軟な心で自分を苦しめない方向へ進んでください。
許す・許さないは人間のやること。赦す、容赦するは神仏の精神。誰もが心が弱い。だから病むのです。
だからこそ神仏に対する時は「人」を交えてはいけません。人を交えないとは、人間のエゴや私的な主義思想をそこに持ち込まないということです。
手を合わせることは神仏の心に住することでもあります。そのように生きることこそが生きた祀る精神です。

2022年10月26日 1:11
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。

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