後悔で苦しい、死にたい
はじめまして。21歳大学4年生です。
過去の後悔でうつ状態です。
どんなに眠くても朝4時には悪夢と過呼吸で目が覚めてしまい、寝るのが怖くなりました。すぐに涙が出たり、食欲不振と、希死念慮があります。
やらなかった後悔は一生残る、どんどん大きくなると言います。死ぬまでこの悪夢のような日々を過ごすのでしょうか。
老衰で死ぬには気が遠くなるほど長いので自殺を考えています。
自業自得と言われればそれまでです。一生向き合えとか、死ぬのは逃げだと言われるかもしれません。でもそろそろ限界です。
楽になりたいです。
こんなに弱くてわがままな人間でごめんなさい。
※スクールカウンセリングや心療内科も行きました。結局は起こった事実は変えられないので、それに対する捉え方を自力で変えるしかないんだと気付きました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
負の毒ガスアクションを心で自分でやっていることを自覚する
こんにちは。大学生の時にあなたと同じく死にたい心理に苛まれて救いを求めて仏の教えに出逢って助けられて以来、仏の教えを私のようなカバ🦛にでもわかるようにかみ砕いて説いておりますダ。大丈夫ですよ。
私は世田谷野沢の三丁目のオンボロアパート独り暮らしでした。トイレに禅の名言カレンダーを貼っておりましてトイレに入るたびに読んでおりました。
それがきっかけになってか、仏教がいままでは勉強・学問の対象だったのが救いのために仏教を求めるようになったとです。たとえば美容のためのヨガとか坐禅とかだと人って救われないのです。目的がちがうからでしょうか。自分が死にたい状態の時にそういう教えを求めると心底染みわたるものです。
ですが、
仏の教えや禅というものは読んですぐ分かったら修行もBOZEも要りませヌ。
世の中には効く薬もあればまがい物もあります。
すぐに効果の出るものもあればじわじわ体質改善されてはじめて効いてくるというものもあります。
ある時に、出来事というものは「思い」も含めて「それ」が生じた時点、あるいは出会った時点においては人畜無害なのダと気づきました。どういうことかと言いますと、あなたが毎回思い出している嫌な出来事や負の出来事は実は今日新たに思い起こしたとしてもその出会いがしらの時点、思いがちょいと生じた時点においては
「ただそういうことがおきた」というだけなのです。ここは心を鎮めて感情的にならずによーく静かに見つめてみれば誰にでもわかることです。さらに詳細に見極めたければ坐禅という方法もあります。むしろ、坐禅というものは自己をみつめて、自分の妄想や煩悩やネガティブ想念というものが、元々無色透明なのダということを自分で本当に見極めるためにこそあるのだと言ってもカゴンではありませヌ。
人間心の動かすアクションを仮に一日に1000回とすると、その心のアクションにも種類があるもんですだ。(*´Д`)
人は自分が自分の心の中で生み出している思いそのものを自分できちんと統制できると救われるものです。自分が自分自身の本来の悩む前の自分を取り戻すためにも心の向上を求めましょう。死にたいぐらいだったら死ぬより楽な電話一本でどなたでも心の安全運転のためのコツをお知らせしておりますので、関心があったらいつでもご連絡ください。どうせダメだろうという心の動きも自分をダメにする思いの発動です。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。こういう出来事が「起きた」というだけなのに、こうするべきだった、こう思われたかった等の自分の感情をのせるから苦しいのですね。それが理解できた時、ふっと心が軽くなりました。しかし未だについ悲観的になってしまうので、その思考の癖をなくすように努めます。