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後悔で苦しい、死にたい

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はじめまして。21歳大学4年生です。

過去の後悔でうつ状態です。
どんなに眠くても朝4時には悪夢と過呼吸で目が覚めてしまい、寝るのが怖くなりました。すぐに涙が出たり、食欲不振と、希死念慮があります。

やらなかった後悔は一生残る、どんどん大きくなると言います。死ぬまでこの悪夢のような日々を過ごすのでしょうか。
老衰で死ぬには気が遠くなるほど長いので自殺を考えています。

自業自得と言われればそれまでです。一生向き合えとか、死ぬのは逃げだと言われるかもしれません。でもそろそろ限界です。
楽になりたいです。
こんなに弱くてわがままな人間でごめんなさい。

※スクールカウンセリングや心療内科も行きました。結局は起こった事実は変えられないので、それに対する捉え方を自力で変えるしかないんだと気付きました。

2022年11月4日 6:23

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

負の毒ガスアクションを心で自分でやっていることを自覚する

こんにちは。大学生の時にあなたと同じく死にたい心理に苛まれて救いを求めて仏の教えに出逢って助けられて以来、仏の教えを私のようなカバ🦛にでもわかるようにかみ砕いて説いておりますダ。大丈夫ですよ。
私は世田谷野沢の三丁目のオンボロアパート独り暮らしでした。トイレに禅の名言カレンダーを貼っておりましてトイレに入るたびに読んでおりました。
それがきっかけになってか、仏教がいままでは勉強・学問の対象だったのが救いのために仏教を求めるようになったとです。たとえば美容のためのヨガとか坐禅とかだと人って救われないのです。目的がちがうからでしょうか。自分が死にたい状態の時にそういう教えを求めると心底染みわたるものです。
ですが、
仏の教えや禅というものは読んですぐ分かったら修行もBOZEも要りませヌ。
世の中には効く薬もあればまがい物もあります。
すぐに効果の出るものもあればじわじわ体質改善されてはじめて効いてくるというものもあります。
ある時に、出来事というものは「思い」も含めて「それ」が生じた時点、あるいは出会った時点においては人畜無害なのダと気づきました。どういうことかと言いますと、あなたが毎回思い出している嫌な出来事や負の出来事は実は今日新たに思い起こしたとしてもその出会いがしらの時点、思いがちょいと生じた時点においては
「ただそういうことがおきた」というだけなのです。ここは心を鎮めて感情的にならずによーく静かに見つめてみれば誰にでもわかることです。さらに詳細に見極めたければ坐禅という方法もあります。むしろ、坐禅というものは自己をみつめて、自分の妄想や煩悩やネガティブ想念というものが、元々無色透明なのダということを自分で本当に見極めるためにこそあるのだと言ってもカゴンではありませヌ。
人間心の動かすアクションを仮に一日に1000回とすると、その心のアクションにも種類があるもんですだ。(*´Д`)
人は自分が自分の心の中で生み出している思いそのものを自分できちんと統制できると救われるものです。自分が自分自身の本来の悩む前の自分を取り戻すためにも心の向上を求めましょう。死にたいぐらいだったら死ぬより楽な電話一本でどなたでも心の安全運転のためのコツをお知らせしておりますので、関心があったらいつでもご連絡ください。どうせダメだろうという心の動きも自分をダメにする思いの発動です。

2022年11月4日 13:56
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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。こういう出来事が「起きた」というだけなのに、こうするべきだった、こう思われたかった等の自分の感情をのせるから苦しいのですね。それが理解できた時、ふっと心が軽くなりました。しかし未だについ悲観的になってしまうので、その思考の癖をなくすように努めます。

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